

| 「万物は流転す」。古代ギリシャの哲人、ヘラクレイトスの言葉である。 常に流動変化し、一時も同じ姿で留まることはなく、刻々とその様相を変えているというのが自然界の実相である、という意味だ。仏教でいう「諸行無常」とも通低し、東洋思想と比べても違和感がない。 古代人は洋の東西を問わず、鋭い自然観察力を駆使し、同じような結論に達したようだ。 さて、このHP上で、何度も出て来る東洋医学用語が「気・血・水」という言葉である。 陰陽のアンバランスが常態化することによって、人は病気になる。しかし、陰陽のアンバランスとは何か?あまりにも観念的過ぎて、訳が分からない。具体的にどのような場合にバランスが崩れるのか?生体の実相とは何か?これらの疑問に答えたのが「気・血・水」の理論である。折に触れ、このことに言及しているので、これ以上は繰り返さないが、生体を生体たらしめているものは何かという疑問に対する、東洋医学的結論であると言っても過言ではないだろう。 「気・血・水」の流れが滞ることなく、円滑に流れていれば、少なくとも、健康体であるとした一見単純な理屈は、単純であるが故に真実である。自然界同様、人体もまた常に流動変化し、一時も同じ姿を留めているものではないという思想は、自然界の一部である人間も例外ではないという、自然と人間の一体感を感じて生きてきた古代人にとっては、当然の考えだったのだと思う。 現在の手技法の役目は、この流れを円滑にするというのが最大の目的といっても過言ではない。自然治癒力の発動は、常に流動変化し続ける生体の「流れ」を回復することによって起きる。逆にいえば、滞りのある状態があるから、自然治癒が妨げられる。 そこで、筋肉をほぐし、血流を回復させるマッサージ的技法が生まれたり、リンパの停滞を解消しようとしてリンパドレナージュという技法が作り出された。西洋、東洋、問わず、技法の呼称が違うだけで、目的は同じだ。 しかし、東洋と西洋の大きな違いは「気」の思想があるかどうかである。近年、西洋的自然療法においても、エネルギー医学というフィールドで血流やリンパ流以外に循環する「生命エネルギー」という考え方が主流になりつつある。所謂「生命場」という概念である。オーラなどが代表的なものであろう。西洋においても、目に見えないエネルギーの「流れ」を無視できなくなってきた証左でもある。 しかし、生命エネルギーの概念は「気」という思想を持つ東洋的なアプローチのほうが年季が入っていて、体系化されている。ただ、用語が洗練されていないだけだ。 「気」という言葉を嫌い「生命波動」といってみたり、「生体エネルギー」といってみても、それらはすべて「気」という概念に包含されてしまうのである。呼び方の好き嫌いの問題に過ぎない。すでに黄帝内経において84種類もの「気」の使い分けをしているくらいだから。 さて、「気」の流れ、生命エネルギー、生体波動、呼び方はなんでもいいのだが、これら、目に見えぬある種の流れを回復するのに、身体の部位で言えば、足がもっとも適している。 東洋的な表現を許して頂けるなら、「気」をもっとも動かしやすい部位だということだ。 血流の改善、リンパ流の改善のみならず、「気」を動かす最良の部位であって、そこにリフレクソロジーの真骨頂があると思っている。逆に「気」を動かすことができないリフレクソロジーは、そのポテンシャルの半分も使っていない。文献的にも臨床的にも立証できるが、それはまた、別の機会に譲る。 ツボという概念は、実は「気」の概念が生んだものだ。普段、何気なく使う言葉だが、本来、生体の「気」を動かす窓口の役目を負っているのである。であるから、「気」が動かないツボはツボではない。また、ツボは解剖学的に特定できるものでもない。人によって違うからである。人によって違うどころか、同じ人であっても日によって、体調によって違う。さらに、施術の最中に消失したり、新たに現われたりする。まさしく、ツボも常に流動変化する生体の流れの中で生まれては消え、消えては生まれていくものだということを実感する。 足が「気」を動かす最良の部位であるという理由は三つある。 一つは前述のように個人によって変化するツボの位置の変動差が少ない、ということだ。 仮に、変動差があったとしても、足という狭い部位の中であるから、探すのにさほど苦労がいらない。探し物をするとき、家全体を対象に探すのと、机の上だけで探すのとでは効率が幾何等級的に違うのと同じである。 二つは「気」の基本的性質のためである。「気」は上昇しやすいという特性を持つ。したがって、足からの押圧で流れに逆らわずに「気」を動かすことができる。これを、頭からやろうと思えば、流れに逆らって動かさねばならぬから、顕著な動きを得られない。頭は頭でまた違う使い方をせねばならない。 三つ目は安全であるということである。足は身体のどこの部位よりも丈夫で安全である。 多少、ツボが外れていても、ツボが潰れる心配は少ないし、筋肉組織が傷み、後遺症がでるということはほとんどない。これが首だったとしたら、大変だ。翌日、首が回らぬなどという事態になる。したがって、足は思い切った施術ができる―すなわちツボの底に到達し「気」を動かすことができるということだ。もっとも、この安全であるという特性が、素人でもできる民間療法として、素人施術者の跋扈を許していることの原因でもあるが・・ 「気」が動いたとき、受療者はどのように感じるだろうか? ある者は「響」きとして感じ、ある者は身体の中を一陣の風が吹き抜けていくような感じを受ける。余程、感性の鈍い者でない限り、この感覚は得られるはずだ。初回で得られる率は8割くらいであろうか。この感覚が鈍くなったものでも、何回か継続しているうちに、その感覚を得ることができると思う。一番いいのは頭頂まで響き、そこから抜けていく感覚を得ることであるが、このときは快感である。施術者にとってもそのような者は改善が早くて助かる。残念ながら、今の人達はここまで至る「響き」を得るには歪みが深すぎて、頻度が少ない。 しかし、「気」が動くということは、このような感覚を得るばかりではなく、もっと重要な意味をもつのである。それは、古来より医家達が渇望して止まなかった“診断力”を得られるということだ。そもそも、身体のどの部分の滞りがキツク、自己治癒を妨げているのか?という診断ができれば、最適な部位に操作を加えることができ、改善への最短距離であることは論をまたない。そこを診断できれば、医師の仕事の大半を終えることができるのである。つまり、医師は診断の確かさによって、その技量が試されるわけだ。足の特性を利用し、誰でも、一級の名医(東洋医学的)になれるのである。足部の押圧によって、「気」が動く。「気」が動いた結果、その「気」が滞りのキツイ部位にあたり、そこに何らかの不快感を感じる。コリを強く感じたり、頭にモヤモヤとした感じを受けたり、寒気を感じたりと・・人によって様々であるが、まともに「気」が動くと、足とは関係のないその人特有の弱点が浮かび上がってくるのである。それは股関節かも知れぬし、肩かも知れぬし、背中、首かも知れぬ。或いは、本人が全く予想しないところかも知れない。しかし、はっきりと明瞭に浮かび上がってくる。つまり、本人が感じるということであって、そのことを聞けば、実に効率の良い治療施術ができるということだ。 後はそれをもとにして、伝統整体によってツボ対応施術でも良いし、矯正手技が得意な施術者は、それをその部位に施しても良いし、アロママッサージが得意な者はそれを行っても良いだろう。 つまり、リフレクソロジーという手技は全ての手技の基本となる、若しくは他の手技の良さを最大限に引き出す可能性を秘めているのである。厳密に言えば、可能性ではなく、現実にそれをやっている少数の施術者がいるということを知って頂きたいと思う。リラクゼーション施術でも、痛くて後に爽快感のある施術もいいだろう。しかし、リフレクソロジーは、否、リフレクソロジーこそが真の医療的施術を行えるのだ。それは、人の「気」をまともに動かせるという特性があるからである。 瞑眩反応という問題もあるが、これはまたちょっと概念が違うのでここでは触れないが、決して痛い施術ではないのに、瞑眩出現率が高まる。このことをもって、本物の医療的施術であることの証明にもなるのである。一等地のサロンでチラシ配りをしながら、時間いくらで労働力を売っている施術者には、永久に分からない世界である。 ただ揉んだり、さすったり、擦ったりしても、「気」は動かない。 ツボを捉えて、そのツボの底に到達させねばならない。そして、ツボに到達したとき、まさしく、本当に「気」が動く。単なる刺激療法でもなく、単なるリラクゼーションでもなない、真の癒しを与えることができるし、受療者もまたそれを感じることができるのである。このように、素晴らしい特性を持つリフレクソロジーであるが、そのことを知っていて実践しているリフレクソロジストはあまりにも少ない。なんと勿体無いことか。 ※リフレクソロジーという意味は反射学、或いは反射療法と訳することは知っているが、ここでは“足揉み”くらいの意味で使っているのでご了承願いたい。一般語として流布しているので使わせて頂いている。 |
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