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施術雑感
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                施術雑感(1) 2003/3/22
                施術雑感(2) 2003/3/28
                施術雑感(3) 2003/4/1
                施術雑感(4) 2003/4/9
                施術雑感(5) 2003/4/16
                施術雑感(6) 2003/4/23
                施術雑感(7) 2003/4/26

                施術雑感(8) 2003/6/7


           
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施術雑感 (1)
2003/3/22

人の身体は面白いものだ。千差万別、多種多様。性格も顔も違うわけだから、体質や症状が違って当然。今更、そんな当たり前のことを言うな!とお叱りがあるかも知れない。
でも、頭で分かるのと現場で痛感するのとでは大分違う。例えば、痛みを抱えたお客さまが来たとする。痛みの箇所を経絡的に判断し、経絡に則って施術すると症状が軽快するわけだ。この時、まざまざと経絡の存在を確信するのだが、技量不足もあって、それでは思ったような改善がみられない場合もある。この時、経絡を一旦離れて、筋肉の拮抗関係を利用して施術すれば軽快に至ることもある。これに味をしめて、筋肉の拮抗関係のみで施術を行っていると、全く逆の場合が起こることもある。

あるとき、どうやっても痛みが取れない人が来て、筋肉の拮抗関係やら、経絡やら色々試してみたが、駄目。なんとその人は痛む箇所に「手当て」するのが一番効いた。
手を当てるだけである。そこで「手当て」が一番効くという結論に達するのは早計だ。
別の人は経絡治療が効いたり、拮抗筋療法が効いたりするのだから。

経絡治療家なら、それら全部ひっくるめて経絡の「虚実補瀉」と言うのだ!というのかも知れない。つまり、「お前の経絡に対する理解が不足しているのだ!」という批判。
まあ、その批判は分からないでもないが、現場は治してナンボの世界だから、何でもやるのである。特に経絡は奥が深い。経絡の理解度100%は無理というものである。それとせっかく解剖学的知識を得られる現代に生きているのだから、筋肉の拮抗関係を利用するのを是としなければ損をするのではないか。
しかし、前述のように様々な知識、テクニックを駆使しても治らず、単純素朴な「手当て」で治る場合もあって、この世界は面白いのである。

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施術雑感(2) 2003/3/28

人によって足部の療法が一番効いたり、手への施術が効いたり、そうではなく体幹への指圧が効いたりする。雑感(1)で述べたように、人によって様々である。
そうすると、ほとんど数えきれぬ種類の手技法を身につけ、人によって何が一番効くかを見極めて使い分けしなければならないのかという問題になる。
その問題の前に「効く」とか「改善する」とか「治る」という意味について考えねばならない。現場ではその場で「効き」、次に来た時は「改善されており、最終的には「治った」というのが理想である。理想というよりも切実なメシの種ではないか。
しかし、「効く」というのと「改善する」というのと「治る」というのは、全然違うレベルのものと認識しなければならないのである。

手技法家にとって、「効く」というのは、痛みの軽快をもって「効いた」と判断してよいのだろうか。施術後の爽快感をもって「効く」としてよいのだろうか。爽快感は交換緊張による一時的な活力の湧出の場合もあるからである。疲れたときに栄養ドリンクを飲んでシャキッとすることも「効く」ということであり、頭痛持ちが頭痛薬を飲んで一時的に頭痛が消えても「効く」ということである。
少なくとも自然療法である手技を行う者は、同じ「効く」という現象に対して、それが将来、「改善」に繋がり、「治る」ということに繋がる「効き方」を意識すべきである。
そうすると、技法を選ぶ際、かなり限られてくる。無制限の中から選ぶというわけではないのである。ただ、ここら辺になると、施術者の人生観やら哲学的な問題が絡んできて、中々同意を得られないのが現状だ。その場で「効いて」何が悪い?という反論は単純にして説得力のある意見だ。その先を考えよといっても、現場では次々とお客が来て、それなりの満足感を与えねばならないし、余裕がないといえば余裕がない。
しかし、施術を継続することによって、「効いて」いながら自然治癒力を減衰させていく場合だってあるのである。これは知らなかったでは済まされない。極端にいえば、人の命に関わるからだ。手技は生体に優しく、薬のような副作用がない分だけ、そうしたことが目立たない。目立たないけれど、継続すれば必ず害が表れる施術の仕方だってあるのである。

前回、「現場は治してナンボのものだから何だってやるのである」と書いたが、厳密にいうと、「己に課したルールの中で」という枕詞が必要である。
そのルールとは、少なくとも私に関していえば、改善→治癒と移行できる技法に限られるというものである。

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施術雑感(3) 2003/4/1

実は「治す」ということは非常に難しい。単に「効いた」というのを「治した」と誤解していたり、「改善」したのを「治した」と勘違いしている人もいる。
病や症状というのは、それぞれ理由があって起きているものである。それぞれの人生の歴史産物として現在の病がある。もしかしたら、前世にまで遡って原因があるのかも知れない。病の根をすべて断ち切って本当の健康体になれば、それは治したことになるのだが、そう一筋縄ではいかないものだ。せいぜい症状改善くらいがいいところだ。
本気で治すつもりなら、「瞑眩反応」は覚悟せねばならないだろう。あるいは一進一退という状況も、あるいは疾患箇所の移動ということも覚悟すべきである。

根が治ってないのだから、症状が別の部位に出るということがある。これを症状の移動というが、同じ症状が単に身体を移動するという場合は、分かりやすいだろう。
最初、首にあった痛みが、肩や背中に移っていく類である。そうではなくて、全く別の病の形態をとることもあるのである。例えば、ムチ打ちが消えて、うつ病になるとか。この場合は、施術者としての責任は一応果たしたことになるというか、因果関係からそれを類推することができないので、新たな病に罹ったという認識しかない。旧の病は消えているのだから。そうなると最早、施術のレベルを超え、形而上学的な問題である。その人は、病で苦しむという宿命そのものに原因があるということになるわけだ。
私にとっても、そこまで踏み込んで治す技量はない。自分にないのに人にそうせよという資格がないのは当然だ。資格がないのに言及するのは、「治る」とうことはそう簡単で、単純なものではないということを、分かってほしかったからである。

しかし、そんな深いレベルで病気になっている人ばかりではない。本当に治ることだってある。歪みが折り重なるようにして沈殿して、現症状を呈している場合は、複雑で期間はかかるにせよ、その歪みを一枚一枚、薄皮を剥ぐようにとってあげれば、いつか治癒に至る。それを押し込めて、或いは麻痺させて「治した」と誤解してほしくないし、「効く」という現象だけを捉えて、歪みを深くするのは万死に値する・・・と思うのだが・・・。

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施術雑感(4) 2003/4/9

足の裏は施術するのに安全なところである。より歪みを深くすることは、身体の他位に比べて少ない。だから、各種技法の許容度が高いともいえる。強く揉んでも、まあ痛いくらいで、その結果、重大な危機に落とし入れるということはない。弱く揉んでも、症状改善する力は弱いかもしれないが、少なくともリラックスできるし、気持ちがいいわけだ。
あとは、好みでどちらかを選ぶということになる。痛いのがいいという人もたまにはいるが、基本的に、人間は痛いのが嫌いだ。しかし、日本人の遺伝子に組み込まれている要素として、痛気持ちいいという「イタギモ」感覚は見逃せない。だから、欧米式であろうと、中国式であろうと、日本においては、最終的には「イタギモ」感覚を与える方向に収斂していくだろう。

もう一つ、日本人が好きな感覚がある。日本人というより、もっと普遍的なものであるかもしれない。それは深部感覚である。ツボ感覚といってもいい。表面的な皮膚感覚よりも、さらに奥にある押してもらいたいところを持続的に押された感覚で、奥に響く感覚、そしてその響きが広がっていく感覚である。これは、外国人にも心地よく感じられるらしい。だから、人間が本能的に求める感覚なのかもしれない。
特に日本人は、ツボに当たった、ハマッタ感覚というのを、遺伝子レベルで受け継いでいるらしく、このような深部感覚に不快感を示す人は少ないのである。
足証療法とは、このような感覚を足部全般にわたって与えていく療法である。
強い刺激でも弱い刺激でもない「深い刺激」である。

日本人が作った「指圧」という手技は、本来このような刺激を目的として作られたものである。現在、指圧は「SHIATSU」として世界中で採用されている手技法となっている。
足証療法もまた、リフレクソロジーのグローバルスタンダードとなる日を夢見て、日々頑張っている次第である。

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施術雑感(5 2003/4/16

アロマテラピー(セラピー)という療法がある。ロバート・ティストランドという研究家が書いた「アロマテラピー」(フレグランスジャーナル社刊)という著作によって知った。もう随分昔のことである。(10年以上前かな)。確かにアロマテラピーは古い歴史を持つが、漢方のように体系化され、臨床を繰り返すという膨大な経験を持っているものではない。だから、多少こじつけっぽい感じがして、すんなりと入ってはいけなかった。
今でも、後世の審判に耐えうる処方体系を持っているんかいな?という疑念はある。
しかし、診断、処方体系はこれから整備されるにしても、精油(アロマエッセンス)の持つ効果に疑念の余地はないと思っている。
アロマは、揮発させて臭覚に訴える部分と、皮膚から浸透させる部分があるが、手技法家にとっての興味は経皮作用の部分であろう。だから、リンパドレナージュ的な手技には欠かせないアイテムとなる。アロマの知識を求めるのは、そこからの要求であろう。
足証療法は、基本的に一点を相手と一体になるほど深く押圧する技法を使い、マッサージ的テクニックはあまり使わない。だから、経皮作用があるといっても、必要不可欠なアイテムというわけではない。しかし、一年位前であろうか、精油を指にわずかつけて、深い押圧を行うと、指に触れる深部のシコリの寛解作用があることを発見した。そのときはイランイランだったが、それがラベンダーならどうかとか、あるいはどうブレンドすればもっと効果があるのかという研究はしていない。他の研究で精一杯であったからである。
今後の研究課題である。
もしかしたら、精油がツボに与える効果というのは、考えている以上に大きいのかもしれない。東洋的なツボとアロマエッセンスとの親和性について研究してくれる人が現れないものだろうか。残念ながら、今の私には研究の時間的余裕はないのである。
機能系、作用系を体系化した経絡との親和性もまた、興味深いものである。
いずれにしても、一生かかる大仕事であろう。アロマに関しては、他所の研究を頼りにするしかない。

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施術雑感(6) 2003/4/23

最近、リフレクソロジーの世界においても、カウンセリングが重要視されるようになってきた。喜ばしい風潮である。カウンセリングなき施術は単なる作業である。作業は単純労働であって、知的労働ではない。リフレクソロジーに限らず、療術というのは、自身の肉体を使うにせよ、知的労働でなくてはならない。
しかし、東洋医学では、もともと心身一如という思想があって、心と身体を分離して考えない医学である。東洋医学自体に心理療法的要素が含まれるわけで、心理的なカウンセリングは施術の中に組み込まれているのである。
だから、カウンセリング重視といっても、ことさら、大げさに考える必要はない。施術を受ける側が、聞く耳を持つという状況にさせる施術を行なうほうが重要であろう。
施術に満足せずして、誰が聞く耳を持つかということである。
施術中は、施術者とお客様との間で無言の会話が行われている。皮膚と皮膚が接触するという、より本質的なコミュニケーションが行われているのである。言語によるコミュニケーションよりもはるかに直接的で、本能に訴えるコミュニケーションである。言語は飾ることができるが、スキンコミュニケーションはダイレクトであり、誤魔化しが効かない。しかし、現代人は本能的な感知力が鈍くなっているわけで、言語で補足してあげれば、尚いいわけだ。しかし、あくまで本能や原始的な感覚に訴える施術ができるということが前提になる。

施術は手段である。治病という目的に対して、或いはリラクゼーションという目的に対する手段として施術があるわけだ。当たり前だが、手段が目的になってしまうとおかしなことになってしまう。施術が終わったら仕事が終了するというものではない。そういった意味でも術後のカウンセリングが重要視される。言語による誘導もまた、必要な場合があるであろうし、そのためのツールも必要な場合もあろう。しかし、前述したように、言語誘導のみを重要視すれば、肝心なスキンコミュニケーションの技を磨くことを軽視することになりはしないか。カウンセリングの重要性を深く認識しつつも、本来の手段である手技の奥深さに気付くべきであろう。

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施術雑感(7) 2003/4/26

施術者にとって最も重要なのは、施術実感であろう。実感なき施術は、根無し草のようなものである。施術実感とは、お客様に喜んで頂けたという他人の評価ではない。勿論、それはそれで大事にことであるが、他人の評価のみで施術者の気分が変動するというのは、自分の人生を人任せにするということに等しいと思う。
だからといって、自分の実感が全てという独善的な態度であっても困るので、難しいところだ。実感には様々なレベルがある。自分がどのレベルで実感しているのか分からないであろうが、少なくとも、それが全てではないという認識を持つという前提があれば、実感を重要視すべきである。

手技においては、直接、相手との肉体的なコンタクトがあるので、実感は触覚的に得やすい。被服を通さないで、素足と素手が直接コンタクトされるリフレクソロジーにおいては、尚更である。リフレクソロジーにおいては、最低でも足底のシコリに触れ、それが溶けていく実感を得ないといけない。深部硬結の寛解を持って実感とすることが、最初のレベルとなるのではないかと思う。最初のレベルといっても、私自身はこのレベルに到達するだけでも、随分と時間がかかってしまった。そもそも、深部のシコリに触れるという概念がなかったのである。だから、足揉みに出会って19年のキャリアがあるといっても、実はたいしたことはないのである。自分でいうのだから、間違いない。
相手が痛がっているのを見て、効いていると実感?したり、相手がスヤスヤ寝入っているのを見て、いい施術をしているのだと実感?したりと、本来実感でないものを実感と勘違いしてしまったりしていた。笑わないで頂きたい。

実感とは言葉を変えて言えば、何を頼りに施術するかということである。
相手の反応だけを頼りにすれば、冒頭でいったように施術者の主体性はなく、根無し草みたいなものである。考えてみれば、自分の実感を深めるために追い求めてきたようなものかもしれない。

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施術雑感(8) 2003/6/7

手技にはもともと慰安的側面(リラクゼーション)がある。足は特に気持ちがいい。他人から足を触ってもらっただけで、実に心地よいと感じる人が多いのではなかろうか。身体に触られるのは駄目だが、足ならいいという人もいる。
しかし、この慰安的な側面をクローズアップして、それのみで開業しても失敗する。
それで成功する為には、各都市の一等地で開業せねばならない。
個人開業はそんなところで出来るわけがない。保証金が何千万円の世界である。
個人開業はマンションの一室や自宅の一部、せいぜい店舗といっても準一等地であろう。より直接的な言葉を使おう。
リフレクソロジーというとカッコ良さそうであるが、それではメシは食えない。
「治す」という言葉は法律的にも問題があるが、あえて使えば「治す」技術を持たなければ食えないのである。治すまでいかなくとも改善する技術をである。
費用対効果の問題で、個人が宣伝費にかけられるのは限られている。そうすると、口コミで広がっていくことが必須である。口コミとは紹介のことであるが、どのような場合、人は紹介し、紹介された人がそこに赴くであろうか。身体に悩みを持っている人の場合である。深刻な病の場合は、入院しているであろうが、入院するまでもないが、つらい、痛いという人はたくさんいる。このような人の満足が紹介を呼び、あるいは紹介されるという連鎖を生むのである。症状を改善する力を持たなければ、紹介の連鎖は生まれない。

このことは、いかに言葉を飾って誤魔化そうとしても、動かし難い事実である。
群を抜いた営業センスを持っていれば、この限りではないが、だいたいそのような人はこの世界に入ってこない。どちらかというと、営業の下手な人がこの世界に入ってくるわけだから、結局、スクールの宣伝文句につられてこの技術を学んでも、失敗するという結果が多いのである。リフレクソロジーは民間資格であるから、その資格だけではなんの価値もない。
リフレクソロジースクールにおいて何を学ぶのか?
それは、足の揉み方ではないのである。症状が改善される技術を学ぶのである。
足の揉み方を習得するのが目的ではなくて、症状を改善させる(あえていえば治す)という目的において、その手段として足を揉む方法を学ぶということを認識せねばならない。幻想は禁物である。
ボランティアとしての足揉みなら、どんな施術でも喜ばれよう。お世辞の一つも言ってくれるかもしれない。しかし、施術料を頂くというのは、ペイに見合った満足を与えねばならない。ボランティアは尊いことである。しかし、そのときウケタからといって、実際お金を頂くプロとして開業した場合、あまりの反応の乖離に、「こんなはずじゃなかった」と後悔するのを見過ぎた。
なんのバックもなく、宣伝費もかけられず、飛び込みでくるお客もいないという個人開業においては、改善できる技術のみが頼りである。

対価3千円に対する満足度と、対価1万円に対する満足度は全然別物である。
であるから、施術料の設定もまた重要であることは間違いない。

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