施術雑感(9) 身体の歪みT 2003/6/10
ここでいう、歪みとは物理的に身体が曲がっている(筋肉の不均衡、骨格の変位)だけのことではない。療術業界ではよく使われる言葉でもあるし、実際、私もよく使う。すでにこのHP上でも使われているし、これからも使うので、ここでその概念をある程度、明らかにして置きたい。物理的な歪みだけを問題としないと記したが、では、どういうものを歪みというのか、当然疑問が出て来るはずである。これにはどうしても東洋医学的な概念を用いざるを得ない。基本的に東洋医学は陰陽のバランスが取れている状態を正常とし、この状態のまま、維持できれば不老長寿を実現できると教えている。結論からいうと、陰陽のバランス崩れ、それが元に戻らない場合、東洋医学的に「歪み」があるとするわけだ。
しかし、陰陽のバランスと言っても、あまりに漠然としすぎていて現代人の頭では全く理解できまい。これは施術家として、経験を重ねるうちに、直感的に理解していくものだが、一般人には何のことやらさっぱり分からぬ。私もそうだった。
理解の仕方には二通りあって、知識を積み重ねて、理屈で分かるという理解の仕方と、直感的に、生命的に分かるというそれである。東洋医学は後者の理解の仕方によって、体系付けれたものであるから、文章や言葉で表現しようとすると、まるで異次元の世界に迷い込んだような感じだ。だから、東洋医学の古典など、オカルト本だ!と断じてしまう人もいる。確かに、装飾過多で、モッタイブッタ表現もあるし、大雑把過ぎて、読む者には全然、親切ではない。しかし、直感的に把握したものを表現する場合、ある意味、記述した者と同じ体験を持った者でないと、真の理解は出来ないし、そうした表現も止むを得ないのである。
後世、東洋医学も数多くの天才達によって、研究されてきた。勿論、時代の制約もあって、現代には馴染まない用語もあるが、なんとか、概念的に分かりやすく、病の原因(歪み)を掴もうとした。そして、後に続く者にも分かりやすい形の理論を残そうとしたわけである。
その一つが「気・血・水」の理論であろう。体内を巡る三つの「流れ」、即ち「気・血・水」が滞りなく流れている状態が正常であるとした。逆に病とはこの流れが正常ではなくなったときに起きるとしたものである。つまり、陰陽のバランスという漠然としたものから、その実体を体内の流動変化の側面から分かりやすく説明したものと言えよう。陰陽のバランスとは、実は「気・血・水」の流れ如何によって変化するものと捉えたわけである。
ここまで来ると、何となく現代人でも分かるような気がしてくると思う。現代医学でも、血流の阻害は生命維持に重大な危機をもたらすものであることは、常識であるし、リンパの流れが阻害されれば、ムクミとなって身体の変調を来たす。
東洋医学では、「血」の流れの阻害を「おけつ」(このソフトでは漢字に変換できない)と呼び、「水」の流れの阻害を「痰飲」「水毒」と呼んでいる。しかし、まだ、現代医学との乖離はあるので、そっくり現代医学の知識を当てはめると誤解を生じてしまう。あくまで、類似性に留まるべきである。例えば、「おけつ」にしても、レントゲンなどでは移らないし、CTスキャナーでも検知できない。ところが、証にピタリとあった漢方薬を服すると、ドロドロとした血の塊が不正出血のような形で排泄される(ご婦人の場合)。さらに熟練した施術家なら、腹部を触ることによってそれを手指で触知でき得るのである。
さて、類似性があるだけでも「血」「水」はまだ分かりやすい。問題は「気」である。東洋医学は気の医学と言っても言い過ぎではない。東洋医学の理論的支柱となった「黄帝内経」には実に80数種類もの「気」の使い分けをしている。実はこの「気」の歪みこそ問題となる本質そのものであり、「気」の歪みがあって後、「おけつ」「水毒」となるのである。
「気」とはなんであろうか。これを理解することが一見、遠回りのようでいて、身体の歪みを理解するのに最も役に立つのだが、理屈では中々理解出来ない厄介な概念である。(現代人の頭では)
つづく・・・
ページtopへ↑
施術雑感(10) つづき・・身体の歪みU 2003/6/16
気の歪みとは経絡の歪みである。それが甚だしい場合は実際の物理的歪みとして認識されるのである。指圧界の巨星であった故増永静人師はスジとツボという表現で分かりやすく説明した。人は活動する際、まず、気が動き、気に従い意識(大脳)が働き、それが神経への命令となって筋肉を動かす。そして活動の目的を達成したとき、気が元に戻り、筋肉など肉体的緊張も解ける。そしてまた次の活動に備えるわけだ。ところが、ストレスや不安、心配ごと(現代特有の傾向性)が続くと、活動を終えているのに気が残ってしまう。気が残れば、意識(無意識)もその部分に固着し、スジのツッパリとして残留する。一晩くらいゆっくりと心から熟睡できれば、それもやがて解消され、翌日には元気にリフレッシュされるというわけだ。子供に肩コリが少ないのはストレス等により、気を残すことがないからである(現代はそうでもないようだが)ところが大人になるにつれて気を残したまま次の活動に従事せねばならなくなってくる。さらに無呼吸症候群などという奇病も流行り、本来、休息すべく取るための睡眠が逆に身体に負荷をかけている場合さえある。そうでなくともストレス社会である。昼間の活動の神経の高ぶりをそのまま家庭にまで持ってくる仕事人も多い。ここに気の歪みが固定されてくる理由があるのである。それは最初は自分でも気がつかないくらいのスジのツッパリから始まり、ついには自覚症状がある肩コリ、腰痛、疲労感として認識されてくるわけだ。プロはそれを一発で見抜き、どこのスジに一番ツッパリがあるか、認識できる。認識さえできればその特定のスジ(経絡)を押圧し元に戻すことが可能である。かくして業者のレゾンデートル(存在意義)があるのである。
ところがスジのツッパリには2種類あって、パンパンにはっていかにもツッパッテいる状態のものと、力なく奥のほうで抵抗するように弱弱しくツッパッテいる場合とがある。前者を実といい、後者を虚という。故増永師は実は虚によって生まれたものであるから、虚に対する処置(補法)がより本質的な改善になると主張し、またそれを実践し、追従を許さないほどの治療実績を上げたものである。
指圧は専門外であるので、言及しにくいが、現在流布している指圧等の手技法は実を力任せに責める方法をとっている業者が多いのではないだろか?
指圧等を長い年月受けた続けてきた者の肩、背中の筋肉はまず例外なく常軌を逸しているほど硬くなっている。そして、一時凌ぎにまた施術所へ通う。施術所にはいいお客さんであるが、その人の将来は見えているようなものだ。また、お客もそうしてくれる施術者がよい施術者だと思っているのだから困ったものである。手技法業界はとんでもない名人、達人級の人もいるかと思えば、全くの勉強不足で却ってお客に迎合し害を与えて平然としている施術者もいる。玉石混交で全く不可思議な世界である。
翻って足揉み業界はどうであるか。基本的に東洋医学は末端の医学という別称があるくらいであるから、施術ポイントが患部から遠ければ遠いほどベターであるという考え方がある。例えば、肩コリでも直接肩を揉んで解すよりも四肢の末端で解決できればよりベターと考えるわけだ。なぜなら、直接説的な刺激は患部を硬くし、若しくは炎症を与え、誤治の可能性を大きくさせると考えるからであり、それ故、針などは五行学説の母子関係を用い、間接的な刺激をなるべく与えるように工夫されている。従って、足揉みで肩コリという経絡の歪みを治そうと(改善)する試みは東洋医学の原則に適っているのである。
かつて、増永師が全身12経を発見したことは首や肩を硬くしている三焦経や小腸経を足部で操作できることで我々足揉み師に大変な恩恵を与えているのである。
それを知らなければ、重点が特定できず、下手な鉄砲数打ちゃ当たる式の施術であるか、反射区を全部揉んでお茶を濁すかのどちらかであったろう。
患部を含めて操作し気の歪みを治すためには、やはり、虚実を見極め、それに対応する技法を使いわけていくことが、本質的改善になるし、将来、患者の身体をダメージさせることもない。まさに手技法は不老長寿の法として位置付けられてきたが、面目躍如である。ところが、実だけを力任せに責めていく施術を続ければ、将来その患者の寿命を縮め、本末転倒となるだろう。
しかし足部の施術は患部からモットモ離れた部位のツッパリある経絡を強圧するため、虚実に関わらず、ツッパリのある経絡に影響を与え、それを緩ませる。そのことは臨床経験から確信しているのであるから、実感を伴っているのである。
例えば下腿部小腸経(古典経絡図には記載がない)の邪気化した部分を丹念に押圧するだけで、肩コリの70%は解消する。(虚の肩コリの場合は解消までいかなくて改善止まりであるが)下腿部三焦経(これも古典にはない)を同時にやれば、改善率90%くらいにはなる。どうしてもそうはならない人は刺激量が足りないか、場所が違うか。その人のツボが閉じ気味の人である。
いずれにしても、足だけでも身体の歪み(気、経絡)を矯正し得る。さらに、改善を早めたい場合は整体も併用するわけである。
ページtopへ↑
施術雑感(11) 治癒反応 2003/7/23
治癒する過程において、ある反応が起きることがある。よく「好転反応」という言葉を聞く機会があるだろう。火傷が治る過程において、カサブタみたいなものが出来、その部分がやたら痒くなるというのも好転反応の一つである。つまり、生体の持つ自然な反応の一つというわけだ。
東洋医学において、気の歪みを問題とするということは、前述した(雑感9・10)とおりであるが、この歪みが元に戻ろうとするとき、生体は大きく動揺することがある。これを東洋医学では「瞑眩」(メンケン、若しくはメイゲンと読む)という。字面のとおり好転反応のような優しさはない。(字義を解釈すれば目がくらみ、目の前が真っ暗になるという意味である)東洋医学史上、正に天才の1人であった江戸時代の漢方医、吉益東洞は「瞑眩出ずんば治さじ」(瞑眩反応が起きないような治療法では病気を治すことはできない)とまで言ったくらいであるから、東洋医学においては、日常的なものとして捉えていたようである。
特に吉益東洞は強い瀉剤を中心に処方し、瞑眩反応を引き起こすことによって難病を治すことを得意としていたので、その反応は強いものであったようだ。
こんな伝説が残っている。
ある商家の娘が重い病に罹り、東洞が呼ばれた。東洞はいつものとおり、強い瀉剤を中心に処方し、娘に服用させた。ところが東洞が帰った後、その娘の呼吸が止まり、脈まで触れなくなった。その商家は大騒ぎである。(そりゃ、そうだろうな)近くの医者を呼び、診させたところ、やはり臨終だという。当然、殺した(?)張本人である東洞をもう一度呼び、診させた。東洞は診察しながら「訳あってのことだから、もう少し様子をみなさい」と言って帰って行った。果たして、娘は数時間後、息を吹き返し、その病もすっかり治り、健康体になったそうだ。これが史実であるかどうかは分からない。しかし、瞑眩反応というものをよく現しているものではなかろうか。瞑眩反応も強いものであれば、仮死状態にまでなり得るものだということだ。半端なものではない。短時間で治そうとすればするほど、強い瞑眩が起きる可能性があるということだ。興味深いことに、東洋医学ではないが、同じ自然療法であるオステオパシーの伝説的な治療家、フルフォード博士もこうした反応を「10トントラックに轢かれるくらいの・・」という表現をしている。洋の東西を問わず、より本質的な歪みを改善する場合、起こりうる現象だということを認識しているわけだ。
私も、この瞑眩反応にはよく出くわす。しかし、足部施術を主体にすると、強い瞑眩はあまり出ないでのある。せいぜい身体がだるいのが2〜3日続いたり、発熱したり、やたら眠気がさしたり、抱えている症状が若干強く出たりである。(ちょっと予測つかない現象もあるが)それでも、受療した側とすれば、却って悪くなったのではないかと思うわけだから、事前の説明が重要である。
困ったことに、この反応は必ず起きるというものではない。また、何回目の施術に起きるかも予測できない。瞑眩が起きる確率は、軽いものも含めて10〜15%位ではなかろうか。東洞に比べれば穏やかなものであるが、人を信用しない現代においては、本当はよい兆候なのに信じてくれないので、この現象は厄介ではある。しかし、生体の持つ自然な治癒反応であるからどうしようもない。
逆に「瞑眩反応」は便利な言葉でもあるので、悪用する輩もいるにはいる。例えば、もみ返しという現象はほとんどの場合、瞑眩ではない。単に刺激が強すぎて筋肉を傷めた場合のほうが多いのである。それを瞑眩と強弁する業者もいるわけだ。瞑眩であるか、誤治であるか判断するには深い洞察力を必要とするので、半端な知識や経験で軽々しくは言ってはいけないと思うのであるが・・・
強い瞑眩を防ぐ一つの方法は、やはり足部のツボを開いてあげるということだ(特に足心)、さらに頭部のツボも開けば(特に百会)、瞑眩はある程度防げる。それでも起きたときはしょうがない。事前の説明を信じてくれるかどうか。それを説明した私という人物を信用に足る人物と判断してくれるかどうかである。結局、施術というのは全人格的に行うものであって、ここに至っては小手先の技術ではなくなる所以でもある。
ページtopへ↑
施術雑感(12) 頭蓋仙骨療法 2003/10/24
ご承知かと思うが、オステオパシー手技のことである。最近施術家の方もよくお見えになって、この話題がよく出る。もはや伝説となったと言ってもよいフルフォード博士の著作や、そのフルフォード博士を紹介したワイル博士の著作がベストセラーになった影響が大である。ワイル博士の著書「癒す心・治す力」に、20ページに渡ってフルフォード流のオステオパシー手技が紹介されており、何を隠そう、私もその著作を読んで初めて知った次第である。この本は初版が1995年のことであるから、今から9年位前のことである。ある意味、衝撃的ではあった。何故なら、「真人は踵をもって呼吸す」という、中国古典のたった一節からその技法を体系化しようとしていた矢先であったからだ。呼吸とは、何度か触れているが、気の呼吸のことである。オステオパシーでは、頭蓋骨の癒合した骨組みが微細運動を行い、その動きが250ミクロンの範囲であるとしている。その原動力は、右脳と左脳の膨張、収縮によって引き起こされているものとだとしているのである。そしてそのリズミックな動きが、より生命の本来的な動きであり、呼吸のリズムと似ているところから、一次呼吸と名付けている。ここで、それについての詳しい説明は避けたい。先に挙げた著作を未だ読んでいない方は、是非読んで頂きたいものである。
さて、気の呼吸と一次呼吸とは、言葉は違っても同じ概念を表わしている。特にフルフォード理論は、驚くほど東洋医学的な発想で人体を捉えている。したがって、読んでいて全く違和感がない。言葉の使い方が違うだけである。
当然重要視するのは、頭蓋骨の微細運動の回復である。つまり、気の呼吸を回復させるという意味に捉えても良いだろう。私は、足部の気の呼吸(足心呼吸)を手技によって回復させようとしていたわけだから、フルフォード博士の存在を知ったときのインパクトはご想像できるだろう。
そこで、頭蓋骨の動きを探ろうとした。たまたま長年足を中心に人の身体に触れてきたので、微細運動の感知は容易であった。また、東洋的なツボを利用し、骨組みそのものを動かし、一次呼吸を回復させるのもそれほど難しいことではないということも分かった。
ところがである。次に受療者が来られたときには、また元に戻ってしまっているのである。
ここに至って、フルフォード博士の偉大さがよく分かった。フルフォード博士の技法はほとんど力を入れず、頭をそっと包み込み、ファ〜ッとしたあるかないかの圧力で頭部を揺らす。ほとんど物理的な力を使わず、気の力でダイレクトに右脳、左脳に影響を与えているわけだ。骨組みの動きは右脳と左脳の膨張、収縮によって起きるわけだから、その原因たる根源に働きかけていることになるのである。しかも、フルフォード博士は、手の極性理論を基にし、左脳に反応するのは右手、右脳に反応するのは左手であると述べている。
ここでこのやり方を真似するには、三つの問題点があることが分かった。
一つ目は、右手で左脳側側頭部、左手で右脳側側頭部に手をあてがうためには、対面で行わなければならないということ。これは、術者が相手の正面に位置しなければならないということである。真正面で、かつ息がかかるほど接近した状態で、施術を行わねばならない。
二つ目は、最初の問題点にも通じるのだが、時間がかかるということである。フルフォード博士が5分で回復できるものが、我々だと数倍かかる(初めて取り組むなら5〜6倍の時間はみた方がよい、つまり25分〜30分くらいだ)。5分間くらいなら、対面で息がかかるほど密着した状態での施術でも、さほど異和感を感じさせることはないだろう。しかし、30分となると話は別である。限られた時間の施術のなかでこれは厳しい。フルフォード博士は半世紀にも渡り、一日3時間の瞑想を欠かしたことがない人である。いきなり、そのレベルの気を放射することは無理というものではないか。
三つ目は、受療者の満足の問題である。日本人はツボ感覚が発達しているため、ツボに入ってこないと満足を覚えない(若しくは律動的なマッサージ感覚)。フワ〜ッとした感覚で30分も続けて、「この先生、何やってんのかしら!」なんて思われたら、効くものも効かなくなってしまう。
このような問題点があって、悩んでしまったのである。フルフォード流の良さを失わず、三つの問題点を解決する方法。悩める日々が続いたが、やはり、考え続けると良いことがあるものだ。ある日、ブレイクスルーする日が来た。発想の転換である。左右いっぺんにやろうとする以上、この問題から逃れられない。ということなら、片方ずつやればいいではないか。これなら、受療者を横向きに寝せたとき、施術者は上方に位置することができる。さらに、左側頭部を右手で押さえられる。そして、左手は後頭部のツボに入れられるわけだ(左側を上にして寝かせた場合。逆向きだと手も逆になる)。左手の人差し指、若しくは中指でツボに入れながら、右手は左脳をイメージしながら気を入れていく。そして時々、骨組みを揺さぶり、可動させる。見た目はフルフォード流とは似ても似つかないが、原理的には他のオステオパシー手技よりもずっとフルフォード的であり、より根源的であると思う。
このようにして作った、頭部の一次呼吸の回復術。最近の整体講習にも取り入れているが、概ね好評のようである。なにより施術者の感性と気が高まる。物理的に頭蓋骨の動きはどんなに大きくても、250ミクロンを超えることはないが、生体はそれを増幅して捉えることができる。施術者自身の感情に訴えてかけてくるものである。これは頭部のみならず、足も手もすべての身体の部位において、生命力の発露として感じられる感覚である。これをキャッチできる感性は、施術者にとって重要かつ不可欠な資質ではないかと思う。
ページtopへ↑
施術雑感(13) 経絡が見えるということT 2003/11/10
本HP上で、何度も出て来る故増永静人師は「証診断」という画期的な診断方法を確立した。東洋医学を深く掘り下げ、そして長年の臨床の結果、その底流に流れている原理を経絡とした。この経絡は単にツボとツボを線で繋いだ概念的なものではなく、現実にそこに流れている何か、つまり気の流れを認識することによってのみ、証診断が可能である。如何なる療法、療術でも、それがいくら効くものであったとして、診断がなければ民間療法に過ぎないとした立場の発言は納得できるものでる。同じ東洋医学である湯液の分野においても、証診断は不可欠のものであるし、鍼灸においても同様である。(湯液は薬方の名がそのまま証となり、鍼灸は一経の虚実を証とする違いはあっても、診断を行っていることにはかわりはない。勿論、古典に基づいた正統的なやり方においてであるが)
翻って、手技法は本来東洋医学の真ん中に位置付けられる本道にもかかわらず、診断もなく、民間療法的な扱いを受けてきた。そして、増永師は少なくとも知る限り、手技法において初めて証診断を体系化したのである。
前述のように、増永師が会得した証診断は、経絡を現実のものと認識しなければできないものである。つまり、経絡が見えなくてはならない。鍼灸と違って、手技法はそのフレキシビリティさから一経の虚実ではなく、二経絡の虚実を診るからである。つまり、虚の経絡と実の経絡を切診によって認識するという作業が必要なのである。そこから導き出される「証」は、例えば肺虚肝実といういうように二経の歪みをあらわしている。この歪みに基づき、施術を行う。
さて、私は指圧家ではないにも関わらず、この考え方に魅了された。そして、なんとしても経絡が見えるようになりたいと思ったものである。7年前、足揉み自体の施術に行き詰まり、可能性を求めて増永師の著作に出会った。そこに描かれている世界はモノの見方が180度変わるほどのものであった。「実」は実在としてそこにあるものであるから捉えやすい。しかし、「虚」は実在ではなく存在である。陰陽でいえば陰に属するものである。陰の世界を捉えるためには、通常の五感では難しい(不可能)。五感は陽の世界を捉えるために発達したものだからだ。であるから、虚を認識するというのは触覚を始めとする五感によるものではない。では何によって捉えるのか。増永師は言う。「共感」によって捉えるのだと。理屈では分かったような気がするが、現実にはさっぱり分からぬ。そもそもどのように見えるのか、想像も出来ないないではないか。増永師は言う。「経絡は見ようとすればするほど見えなくなる。すべて経絡で考え、すべてを経絡で解釈していくとき、経絡の方からその姿を現す。見ようとして見るのではない。経絡のほうから姿を現すのである」と。また、「被服の上からでも見えるのですかと問われるが、この眼で見ていることには変わりがない」とも言っている。著作上の行間を読まねばその真意は分からぬ。臨床につぐ臨床、その度に読み返し、また臨床を積んだ。
そして、見えた。経絡が姿を現したのである。なんと7年もかかってしまった。驚くべきことに本当に経絡というのは存在する。
目に見える陽の世界は陰の助けによって働き、動かされている。そして陰陽は相対的なものである。例えば、目に見える体表(陽)は目に見えない体内(陰)の状態を映し出す。逆に体内の血流やリンパ流など動的な働きを陽とすれば、それらをコントロールする自律神経は陰であろう。さらに自律神経そのものを働かせる原動力はもっと見えずらい経絡の存在が関与している。つまり、自律神経を陽とすれば、経絡は陰なのである。
新潟大学の安保教授は、「自律神経を突き動かしているものは分からない。それは神様なのかもしれない」と言っている。当代、一流の医学者でもその根本的な原動力を医学的に説明することはできないのだ。フルフォード博士はそれを生命場と表現した。増永師は経絡と呼んだ。表現は違ってもある種の生命エネルギーであることに間違いあるまい。本来、生命力とか生命エネルギーというのは感じるものであって、数値化できるものではない。
バイタリティがある人とか、生命力に満ち溢れている人とか、一般的に何気なく使っている言葉が、実は根源的なエネルギーを感じ取っている証拠であろう。つまり、だれもが、元気がある、元気がないなどと、日常表現している言葉の中に経絡を見るヒントが隠されていると言えよう。それは視覚だけでもないし、触覚だけでもないし・・つまり五感を総動員した結果“感じる”ある種の感情として捉えているわけだ。その感情を研ぎ澄ませていった結果、遂には経絡を見るに至るのである。
さて、どのように経絡は“見える”のだろうか。
これについては増永師の最晩年の講義を受け、経絡が見えるようになった遠藤師が、極めて美しい表現で述べておられる。一部引用しよう「私が経絡(気)の診断をしようとして、患者を診る時は、大自然に連続している辺際なき気の流れそのものを、患者の全身に感じます。1人の患者という個は、自然という全体と、相互に浸透しあっているのです。ちょうどこれは、川の流れそのものを見る時の心と同じです。流れそのものには、辺際はなく、また、それは自然のサイクルとして存在しているからです〜後略」
文学的で誌的な美しい表現である。しかしここにはすべての要諦が凝縮されている。実に深みのある説明だ。私もこれ以上の表現はできない。もっと俗な表現で言うと、押圧した部位からのエネルギーの広がりが全身に及び、さらに自然界に繋がっているのが“見える”ということだ。それは遠藤師が言う「目の前のコップを見ているが如く、明確にクリアーに見える」のであって、何となくそんな感じがする、という程度のものではない。
さて、何度もいうように私は指圧家ではない。経絡的な証診断をマスターしたとしても、それをそのまま実行したら、指圧家になってしまう。証診断を行う場合は腹証によって見出すわけだが、これはとんでもない集中力が必要だ。これだけでヘトヘトになってしまう(多分私が未熟なせいだろう)。足揉みが出発点になってこの世界に俗にいうハマッテしまった私であるから、足揉みに対する執着は捨てきれない。こだわりがあるのである。そこで、“経絡が見える”ということを利用して足揉みをしたらどうなるか?実験してみた。
つづく・・・
ページtopへ↑
施術雑感(14) 経絡が見えるということU(足証) 2005/1/15
さて、つづきを書くのに約1年もかかってしまった。
ゆっくりできるのはお正月くらいなので、これは元旦そうそうに書いている文章である。
正月はいい。特に三が日は電話もほとんど鳴らず、来客もない。ゆっくりとパソコンにむかえる。私にとっては至福の時間だ。ということで張り切って続きを書きたい。
経絡が見えるということは、気の広がりを見るということである。それが感覚的には視覚を通して、クリアーな映像として見えるものであるが、相当な集中力を持たねばならない。また、ある種の変性意識(トランス状態)に意識状態をもっていかねばならないのだ。平素の訓練(瞑想など)が不可欠である所以である。
足部の操作において、実はこの状態にもっていくのは難事中の難事である。
圧を水平方向にかける体勢であるから、脱力が難しい。どこかに力が入ってしまうのである。力が入ると意識が強く働いてしまう。そうすると変性意識にはならず、生命の直接的な変動をキャッチする原始感覚が働かない。かくして足部操作においては難事となるのである。
20年に渡ってこの療法(足部)に取り組んできたが、本当に脱力が難しいものである。
まあ、それはいいとして、ある日、腹証と同じ感覚を得ることができた。その感覚は、まさしく気の広がりとしてキャッチする感覚であって、原始感覚であり、経絡感覚である。それが人によって見える部位が違うわけだ。ということは、足証が成り立つということになる。
さて、ひとによって違うのであれば、その部位との関連性が当然出てくる。が、足部は腹部と違って面積が狭い。部位の特定が微妙すぎるのである。しかも、その部位は足裏全体ではなく、足心区(土踏まず)に集中して出てくる。12もの反応点としてどうしても特定できなかった。さらに研究を続ければ、やがて12経絡の特異反応点を見出すこともできるのかもしれないが、同じ努力をするなら腹証のほうが簡単である。すでに腹証の特異反応区は増永師によって公表されているし、督脈と任脈を含む14の特異反応点は遠藤師によって公表されている。追試しているが、正解だと思う。(一部どうしても分からないところがあるが)
足証を体系づけるといきこんではみたものの、壁にブチあたってしまった。それにしても新しい概念を構築するには、とてつもないエネルギーと労力が必要である。収入を保証された研究機関に所属しているわけではないのである。本来の仕事と平行して研究を続けねばならない。しかも、いつも変性意識に入れるわけではない。体調やスケジュール密度によって左右される。膨大な体力、気力消費である。治療法の確立をなした創始者達が短命なのは、訳あってのことだということが分かる。(自分も短命は覚悟しているが、疲れるのには閉口する)。
まあ、今のところなんとか7つの特異反応区を同定できた。
さて、この7つの特異反応区はなんであろうか。12経絡のうちの7つなのであろうか。
どうしても7つ以上の反応区が見つからない。試行錯誤が続いた。
ある日、陰陽関係で眺めてみた。証を決定する際、陰陽関係にある経絡は基本的に同じ虚実として捉えない。であるならば7つという意味は六臓六腑の陰陽で6、督脈と任脈の陰陽で1、合計7つになるではないか。
勇躍、実験に勤しんだ。が、物事は理屈道理にはいかないものだ。腹証との整合性がないのである。証が違い過ぎる。同一人(患者)において、各部位の診断の証が違った場合、「腹証を優先すべし」という原則が漢方にはある。足証と腹証が違った証を指し示しても、この原則があるかぎり、それはそれでいいのであるが、それにしても違い過ぎた。例えば腹証では明らかに大腸虚の証を示しているが、足証では肺―大腸という括りで特異反応区を想定しても引っ掛かって来ないのである。陰陽関係の括りは理屈には合うが、現実には違うという結論に至らざるを得なかった。
そのような中、もう一度、中国医学の原点に立ち返ろうと思い、名著の誉れ高い石田秀美氏の「中国医学思想史」を再読した。経絡の原点とは何であるか。かなたの記憶では、この本に書かれていたような気がしたからである。そうであった!経絡は三陰三陽論が最初にあったのである。三陰三陽とは、少陰、太陰、厥陰の三陰と、太陽、少陽、陽明の三陽である。
後にこれが手足に分けられ、手の少陰―心経、足の少陰―腎経の「心―腎グループ」。手の太陰―肺経、足の太陰―脾経の「肺―脾グループ」。手の厥陰―心包経、足の厥陰―肝経の「心包―肝グループ」。手の太陽―小腸経、足の太陽―膀胱経の「小腸―膀胱グループ」。手の少陽―三焦経、足の少陽―胆経の「三焦―胆グループ」。手の陽明―大腸経、足の陽明―胃経の「大腸―胃グループ」となるわけである。勿論、一足飛びにこのようなたて分け方になったのではなく、それなりに変遷を経てなったようだ。出典によって異なる分け方もあるが、次第に体系化し整備されたものであろう。
このような三陰三陽で特異反応区を設定した時、腹証との整合性がかなりの確率であることが分かった。勿論、違う場合もある。がしかし、違う場合は腹証を優先すべしという原則に従うことにすれば良い。その程度の違いはあっても問題ないし、違いが出て来るということを想定しているからこそ、腹証を優先すべし、という原則が立てられたわけである。要は、その整合性が許容範囲であるかどうか、ということである。
残りの一つをどうするか(足心)。実は未だ結論をみていない。これを任脈、督脈の特異反応点にすべきかどうか。腹証において、任脈と督脈の証をとることができないので分からないのである。遠藤師が現代においては任脈虚の証が異常に多いと述べている。この所見を尊重すれば、足部においても足心点の証が多いという現実からして、任―督の異常と捉えるのも間違いではないような気もする。
しかし、足心点は何かまた違った原理が働いているような気もするのである。
であるから、白穏が名付けた「足心」という名のまま使用していて、足心の証は足心の証として捉えているわけだ。(足心原理という別個の原理を述べた論文を発表している)
今のところ、経絡原理を足(特に足裏)に当てはめた場合、このようなことになっている。
勿論、完成しているわけではない。様々な療法、療術が、進化、発展をしている現在、足証療法もまた、進化し発展を遂げる。そうあるべきであろう。つまり、発展途上というわけだ。完結した療法はその時点で限界を宣言しているようなものである。永遠に完結しない療法が本物であると個人的には思っているわけだ。なんとしんどい道であることか。賽の河原で石を積むような作業なのかもしれない。
ページtopへ↑
施術雑感(15) 療法の普遍化 2005/2/20
療法の普遍化というのは大問題である。もともと、療法、療術というのは個人技であるから、同じ療法、療術を行っている者であっても、個人によってその成果は違ってくる。これは当然のことだ。同じ整形外科医であっても、個々のドクターによって技量が全く違うのと同じである。整形外科医でなくとも、どんな専門医でもそれは言えるであろう。
この個人に属する問題、即ち技量については、個々人の努力や資質の問題であるから、詳述する必要もないし、雑感で取り上げる問題でもない。
しかし、その療法そのものが持つ特性や体系が理解し難い、若しくは凡人が及ぶところではないほどに高度なものであって、修得困難であれば、個人の問題を超えたところに問題が発生する。
例えば、経絡治療は基本的に証診断を行わなければ、経絡治療とは言えぬ。証診断を行うためには、経絡を見る心が必要になる。言葉でいえば簡単であるが、実際、そのようなことができるには、極めて特殊な感性と多大な努力が必要であろう。普通の者が最大限の努力によって身につくものと、特殊な者が最大限の努力によって身につくものとでは、天地雲泥の差が生まれる。普遍化とは、特殊な者のみが会得できるものではなく、普通の者でも最大限の努力をすることによって、身につくものということである。でなければ、ほんとんどの者にとって、その療法、療術が絵に描いた餅になってしまうであろう。
療術の創始者は、常人にはおよびもつかないほどの情熱と努力、そして天賦の才を持ち合わせ、さらに生涯をかけて追求していった結果として、一つの療術体系を作っていった。では、次にその意志をつぎ創始者と同じことができる者が育つ可能性は、どれくらいあるのであろうか。
実はこの問題は東洋医学が抱える本質的問題なのである。
明治8年に正式に漢方医制度が廃止された。この年は日本の医療が国策として西洋医学を正式に採用したという記念(?)すべき年であったのである。
日本において医師の資格を得るには、すべからく西洋医学を学ばねばならないこととなった。漢方をいくら勉強しても医師にはなれないという、それまでとは180度違う大転換点だったわけだ。何故、日本はそれまで営々と築き上げてきた漢方を捨て、西洋医学にシフトしたのであろうか?西洋文明に追いつき、追い越すため、古いものは全部捨てるという考えに基づいたものであったとしたら、あまりに短絡的であり、思慮を欠いた決断だったと言わざるを得ない。では西洋医学の方が効き目があり、漢方では治せない例がたくさんあったのだろうか?
事実は逆であった。当時の西洋医学は、抗生物質に代表される画期的な薬剤が開発されていたわけではない。したがって、当時の死病と恐れられていた労咳(結核)には無力であったし、麻酔剤も充分ではなく、外科手術もこんにちでは想像もできないくらい、お粗末であったのである。
しかも、西洋医学と漢方との直接対決を行っている。
同じような病状や病態をもつ患者を、統計学的に有意な数だけ集め、それを2群にわけて、一方は漢方のみの治療、一方は西洋医学のみの治療を行った。どちらのグループが経過良好であるかという実験である。(こんにちでは考えられない人権無視の実験だが、当時は行えたのである)。結果は圧倒的に漢方有利と出た。
それでもである。それでも漢方を捨てた。何故か?
漢方治療を行った医師は当然ながら、名人、達人級の人たちであるが、この人たちは何故治ったか説明できなかった。経験と感によって証を決定し、方剤を選び、取穴したわけだ。「何故、そのような方法を選んだのか?」という質問に対して「直感です」としか言いようがないのである。「証が見える、経絡が見えたからだ」という答えでは?マークが三つくらい質問者の頭を駆け巡るだろう。治療法の決定に至るプロセスがあまりにも明確ではなく、合理性を欠くと判断された。
実は、これこそが東洋医学の本質なのである。特別な資質の持ち主が長い修行を経て、会得する直感知が支えているところの医学なのである。
最初、この当時の判断は短絡的過ぎるし、政府の浅薄な考え方によってなされた痛恨の判断ミスであると思っていた。漢方廃止論者の急先鋒が森鴎外であることを知って、彼の小説さえ評価できななくなったほどである。
しかし、冷静に考えてみれば、確かに漢方は直感の医学であって、それは医学というより医術と呼んだほうが適切なくらいである(大塚敬節氏)
一国の国民の健康問題は政府の責任である。当然、良質の医師を養成する義務も発生する。近代国家としては当然の義務であろう。このとき、一部の名人級の医師のみが行える医療を選択する余地はあったのだろうか・・漢方医を養成するカリキュラムなどない。ひとりの名医のもとに修行のため弟子入りして、その者が資質豊かで、かつ不断の努力をする者であったら、やがて師と同等の技量も得よう。しかし、こんなシステムでは3000万人(当時)の国民が等しく医療を受ける機会を得るほどに良医を育成できるだろうか?
医術としては当時未熟であっても、合理性とカリキュラムが整備された西洋医学を選んだ政府の方針は、止むを得なかったのではないか・・・むしろ、既得権益を断固排除した明治人の気骨さえ見て取れるのである。俯瞰する位置によって物事が違って見える。療法の普遍化ということを考えた場合、明治8年の出来事は、ある意味仕方がなかったのかもしれないと、昨今思う次第である。
西洋医学一辺倒となった日本の医療は、いち早く、西洋の革新的薬剤や技術を取り入れる環境が整い、無用な流派の争いなどからは無縁でいられた。勿論、東京帝大医学部を頂点するヒエラルキーが形成され、白い巨塔的な弊害はあったろうが、各流派が各流儀の優位性を唱えて覇を競うような漢方的混乱がなく、むしろ一定の秩序を保つ上でいい面さえあったと思える。
時代は移り変わり、幾多の変遷を経て、こんにちに至った。
こんにち的な発想で医療を見れば、西洋医学は客観性、再現性を重んじるあまり、病人を診ないで病気を診るという弊害が叫ばれている。そこにあるのは患者不在の学問であっても、患者を全人的に診るという治療学の発想がないとさえ言われている。例えば、明らかに患者は苦痛を訴え、苦悩しているのに、検査上異常が見当たらないとして帰されたなどという例など枚挙に暇がない。東洋医学的な発想、即ち患者の苦痛を最優先するという考え方が再度見直されてきている。しかし、西洋医学もそのような状況を指をくわえて見ているわけではない。心ある医師等は東洋的な発想の治療法を取り入れ、仮に使う用語は東洋医学とは違っても、身体を診る思想において、東洋的な治療法に少しずつではあるが近づいてきているようだ。ペインクリニックで行うトリガーポイントの発想などは極めて東洋的だと思う。
足証整体は、個人的な技術の追求から始ったもので、足裏に経絡を見るという、ほとんど大それた野望に近い目標をたて、個人技を追求していったものである。それが出来た今、かつて漢方が辿った道、即ち、個人技過ぎて修得困難なものであるという事態に陥っている。
西洋医学が問題点を認識して少しずつ修正を加えているように、足証整体もまた、個人技に走ることなく、体系化され、整備された形の伝授が必要になってきた。時代から時代へと継承させるために、療法の普遍化は極めて重要なものと認識している次第である。
ページtopへ↑
施術雑感(16) 発勁 2005/5/22
山崎氏との対談が終わった。氏の善意に満腔の意をもって感謝したい。
ところで、会話を文章化するのは結構、骨が折れる。そもそも、会話は流れていくもので、その場の雰囲気によって、同じ言葉が微妙なニュアンスの違いを生み出す。また、文法的にも正しくないことが多い。それをなんとか読むに耐え、かつ微妙なニュアンスを失わないようにしていく作業は自分で文章を作っていくのに等しいくらいの労力がかかる。
内容を読み返してみると、やはり、説明等が充分ではなく、微妙なニュアンスが伝わっていない。反省すること、しきりである。その中で、発勁についての説明があまり具体的ではないとの意見があった。発勁は確かに言葉で説明するには難しい概念である。
これは体得するのが一番の理解の早道なのだが、補足で少し、述べてみたい。
とにかく、人の身体というのは「力」で押すと反発される。「力」を入れているのに、全然、圧が浸透していかないのだ。この時、施術者はフラストレーション、不全感を感じるものだ。そうは言っても、勁を使った経験のない施術者には分からないのかも知れぬが。少なくとも、勁を使う施術者にとっては力による反発は絶え難い不全感を感じさせる。
ふと気がつくと、勁を使うのを忘れ、力を使ってしまっていることもある。疲れて集中力がなくなったときなど、特にそうだ。そのときはまた基本にもどり、体勢を整え、新たな気持ちで再開することになる。
野球でも一流の選手でさえ、スランプに陥ることがある。この時、彼らの対処法は調子が良かった頃のビデオをみたりして現在のフォームとの違いをチェックしながら、なんとかスランプ脱出を図ろうとする。実は施術者にもスランプがある。いくら勁を発しようと努力しても微妙にズレがあって、うまく、いかないのである。あらゆるところから、チェックする。角度、位置、体勢、体重の乗せ方・・それでもうまくいかない。一体、どうしてしまったのか?もう施術ができないのではないか?などと不安がよぎるが、そんな心情に関係なく、待ったなしにお客様が来院するわけだ。好きで選んだ仕事とはいえ、こんなときは本当に施術がつらいし、情けないし、申し訳ない思いで一杯である。
ところがあるとき、また元に戻ってできるようになる。そんなことを何度、繰り返したことか・・やがて、そのようなことを何度も何度も繰り返しているうちに本当のコツというものが分かってくる。技術的なことをクリアーしていれば、大概の原因は気持ちの問題なのだ。気持ちに少しでも焦りがあれば、微妙な筋肉の緊張を招き、脱力できない。それは本当に微妙なものだと思う。意識に上らないほど、微妙な緊張である。それが勁を発するのを邪魔する。全く、なんという不思議な身体の構造であることか。
お客様は鈍い人ばかりではない。勿論、ツボが閉じていて、ミソもクソも一緒に感じる人もいるが、鋭い人は鋭い。施術者の焦りや功名心など、簡単に見抜いてしまう感性の鋭い人もいるわけで、そういう人にあたり、勁を使えないときの施術ははどうしようもなく情けないものだ。
ところで、よく色んな施術にかかる人で、ツボが潰れている人がいる。「力」の施術を受けすぎた一群の人たちである。「力」で刺激されるのを身体で覚えこんでいるので、このような人達は強い「力」を与えないと満足しない。また、それに応えようとする一群の施術達もいて、需給のバランスが保たれているのかもしれない。
お客「やっぱり、これくらいの刺激がないと効かないね〜」
施術者「そうですよね、他のは単なるリラクゼーションですから」
などという会話が交わされ、施術者はその客が満足するという事実によって、正しいことをしていると思ってしまう。また、自分が一番上手い施術者だと勘違いする。
しかし一方で別のサロンでは・・
お客「気持ちいいね〜、○○式は痛くてダメだよ」
施術者「痛いと緊張してリラックスできませんからね」
かくして、ここのサロンの施術者はこの方法が一番だと思いこんでしまう。
人によって感受性が違うということを体験的に分かっている施術者なり、経営者は昨今のお客様第一主義のマーケティングに影響されてか、好みに合わせろと訳知り顔で言う。
こんなことが日常的に行われているのが所謂、癒しの世界の現状ではないだろうか。
いずれも発勁という発想がないのだが、若し知れば、世界観が変るはずだ。
何故、手技なのかを考えてみれば分かるのではないだろうか。手で行うのは気持ちが良いという一言で片付けられるが、「気持ち良い」という言葉の中にはその段階がほとんど無限に存在するはずだ。そもそも、「気持ちよさ」にはベクトルの方向が2極あって、一極にはアッパー系、対極にはダウン系である。
一般にアッパー系快感は興奮的な気持ち良さで、ダウン系快感はくつろぎ的な気持ち良さとされている。麻薬でいえば、前者は覚せい剤やコカインであり、後者はヘロインである。
昔から、ヘロインは麻薬の王と言われているが、なにもしないで、ただ黙って座って(或いは寝て)いるだけで、気持ちが良いという贅沢な作用があるからである。勿論、その分、禁断症状や習慣性が一番強いのだが・・(麻薬などやったことはありませんぞ、念のため)
麻薬の話は蛇足である。言いたかったのは、手技の気持ち良さというのは基本的にダウン系であるということであり、運動と興奮を伴うセックスの気持ち良さに代表されるアッパー系快感とは対極にあるということだ。癒しとは疲れた身体と心を休息させて、エネルギーを蓄積し、明日への活力を得るためのものであるはずである。しからば、何故、わざわざ強い「力」で揉み、押し、擦るのか。一時的な交感緊張による活力の湧出は癒しではない。かといって、リラクゼーションのみでは、効かない。ここに施術者のジレンマがあるとするなら、発勁はそのジレンマを解消する唯一の手段とも言えるのである。
刺激を与えるのではなく、浸透させるという発想そのものに意義がある。発勁は位置、角度のいずれのズレによってもなされない。位置と角度が決って、力を入れずに力を入れる。
なんという矛盾した表現だろうか。発勁という概念を持っていなくとも、その感じをよく分かっている人もいる。そのような人達の話を注意深く聞いていると、実に様々な表現方法をとって説明しようとしている。曰く、「手で押すな!腰で押せ!」「腰を入れろ!」曰く、「体重を使え!」「体重の乗せろ!」。習う方もまた、感性が様々であるから、腰を入れるというキーワードで理解する者もいれば、体重移動のキーワードで理解する者もいて、切り口はかなり幅広いのである。ともあれ、発勁が出来るようにしたいのだが、教える側の感性と教わる側の感性が一致しないと、中々理解が難しいものである。ほとんど、本能的にそれが出来る者もいるので、教える側は単に上手い人と、下手な人に分けて差別化して、それ以上深く考えようとしないことがほとんどである。
教える側が個人的に出来たとしても、自分ができる動きを分析して、その人に合わせて、表現を変え、切り口を変えながら、体得して貰わねばならない。単に上手い、下手で括ってはならないと思う。あくまでも、その教わる人に合わせた、或いは理解できる言葉を選び、表現しなければならないのである。したがって、個人によって理解のさせ方が異なるわけだ。そういうわけだから、一般論として文章化できない性質のものである。昔は、こういうものは秘伝とか、奥義に属するもので教えては貰えなかったものである。術は教わるものではなく、盗むものである。、という格言が伝わっているくらいだから・・・ある意味、そうなのだが、現代においては全てがサービス業になっていて、昔のように、徒弟制度をとることができない。また、ほとんど収入がなく、修行時代を過ごせる環境にもない時代だ。学校の役割というのは自分で体得するにはあまりにも膨大な時間と労力がかかるので、その時間を節約するために、時間をお金で買うみたいなところがあって、自得していくことに意義を見出した昔の時代とは異なる。如何にそれを体得させていくか、これが全ての教育事業者に課された命題とも言えるのである。
長く、施術することと、教えることに携わってきて、発勁にもまた、深化の段階があって、あるときは、逆戻りしたり、体得したことをすっかり忘れてしまったり・・等を経験してきた。であるから、その時々の自分の段階に合わせた教え方をしてみたりした。たまたま、感の良い生徒さんに教えたところ、よく体現できるので教え方に自信を持ったと思ったら、ある種の生徒さんにはそれが全く通じなくて往生したり、実に様々な経験をしてきたのである。教えるということは実に奥が深い。これは自分で自分の技術を深化させるのに匹敵するほどである。逆に言うと、自分の技術を深化させないと、表現方法のバリエーションが狭まるのではないかと思う。
教え方についても試行錯誤を繰り返してきたわけだが、発勁の本質を掴ませようと、必死だったわけだ。勁の概念を使わず、発勁の本質を掴ませるという作業は、自身の挑戦にも似て、難行苦行の連続であった。一時期などは「教えること拒否症候群」にかかったのではないかと思ったくらいである。どうやっても、力が抜けない一群の人たちもいて、そのときは、あるゆる切り口で説明するのだが、どうやっても体的に理解でいないのである。ある意味、身体感覚が低下している人たちなのだが、これには、往生していまう。しかし、真面目にやっている者は遅かれ、早かれ、体得していくものだから、人間というのは、健常者であれば、さほど差異はないのかもしれない。どんな人でも早い段階で勁の感覚を掴ませるということが明生館塾の最大の使命かな、と思う昨今である。
勁にも様々なレベルがあるので、一度、コツを掴んだら、自分自身で深化していかねばならないことは勿論だ。そのスタートラインに立てるかどうか。これは全面的に明生館塾の責任と認識している。中々、出来なくて、出来た瞬間の喜びを見るのも楽しい。この時ばかりは教えていて本当によかったと、素直に思えるときでもある。
あるレベルまでくると、身体のどこを触っても勁を発することができるので、このレベルまで少なくとも来てほしい。修行はそれから始るのである。勁を使えれば、圧を浸透させる(補法)のは造作もないし、組織拘束の除去、エネルギーの解放(瀉法)もまた、もっと簡単である。そうすると、虚実補瀉という東洋医学の真髄も手技において体現できることになる。やはり、勁の概念を掴むということが、最初の方法論となるのではないか。
最近、痛切に感じている問題でもあり、課題だと思っている。
ページtopへ↑
施術雑感(17) 頭蓋の動き 2005/6/5
何度もHP上で記述しているが、頭蓋には間違いなく、リズミックな動きがあって、その原動力は脳自体のエネルギーによってなされている。つまり、左脳、右脳の膨張、収縮である。実にオステオパシーの真骨頂はこの頭蓋のリズミックな動きを回復させることにあるのではないかと思う。(勿論、それ以外にも様々なテクニックがあるにせよ)
人の身体はどう考えてもリズム体である。誰でもわかる動きは、例えば、心臓、肺である。
心臓は拍動というリズムを刻むし、肺は呼吸というリズムを刻む。
呼吸は自分の意識でその深さを変えることができるが、心臓は余程のヨガの達人でもない限り自分でそのリズムを変えることはできない。
仮に心房細動という病気にかかったとしよう(不整脈)。心臓が微細な痙攣を起こして、リズミックな動きができなくなるものだ。これにかかったからといって、ただちに重大な危機に陥るわけではない。自覚さえない者もいるくらいだ。しかし、将来、血栓のリスクが増大し、脳梗塞や心筋梗塞を誘発する。侮れないものである。
このように少なくとも、自覚できる、若しくは自覚できなくとも、検査でわかるリズム障害はまだいい。早めに手を打てるからである。しかし、脳のリズミックな動きが阻害されている場合はどうであろうか。心臓と違って、その動きさえ、自覚できない。しかし、脳もまた、間違いなくリズムを刻んでいるのである。その動きが阻害されていると、心臓よりももっとタイムラグがあるが、身体に重大な影響を及ぼすのである。
左脳と右脳の膨張と収縮がキチンとなされていれば、頭蓋はその影響で微細な動きを行う。
頭蓋が動くという説はすでに証明されていて、疑念を挟む余地はない。それを感じ、そして、動きを回復させるという技法が難しいわけだ。
オステオパシーは日本では正式な医療として認められていない。したがって、オステオパシー的手技を身につけたとしても、あくまで日本では民間療法の扱いになってしまう。
であるから、オステオパシーを身につけるべく海外に留学し、資格を取得し、帰国したとしても、リフレと同じ民間療法扱いである。そこで、心ある人達が日本でも、アメリカと同じように、その技術を見つけることができるように、本国と同じカリキュラムで行うスクールも設立されている。少しは負担の少ないものになって、良いことではないかと思う。
が、それでも、4年以上の歳月と4〜5百万円の費用がかかってしまう。こうして、取得したしてもやはり民間療法扱いである。本国まで行かないで済むというメリットはあるものの、それでも費用は民間療法扱いの割りには高すぎて、普通の者には負担が過ぎるだろう。かなり、特殊な人達がいくスクールということになってしまうのである。
オステオパシーには様々なテクニックがあるということは前に述べたとおりである。そのテクニックを駆使するには解剖、生理のちゃんとした知識が必要であろうし、基礎医学全般の知識も必要である。しかし、頭蓋のリズミック運動を回復させるテクニック以外はほとんど東洋的手技で代用できるものである。東洋的叡智をバカにはできないのである。用語が違うのと、多少のアプローチの違いがあるだけだ。そもそも人間が行う手技は、人間である以上、かなり似た技法も出て来る。これは真似したというのではなく、必然的にそのようになってしまうのである。であるから、東洋的な整体によって、オステオパシーの目的とするところを達成することができるわけだ。
しかし、頭蓋の微細運動の回復だけはどうも、東洋的な伝統手技の中には似たようなものがない。特にフルフォード博士が完成させた頭蓋療法は、類例をみない。もともと、フルフォード博士は特殊能力者と言ってもいいくらいであるから、D.O(ドクター オブ オステオパシー)の間でも出来るものは少ない。だから、オステにおいてもやり方にかなり違いが出て来るのである。
他の雑感の項でも述べているので、詳しく説明するのは割愛するが、今、頭蓋の操作が楽しくて仕方がない。施術後の頭蓋の大きさは少ない人で0.5センチ、多い人で1センチほど、頭蓋周囲が広がる。それだけ、脳のリズミックな動きが抑制されていたということだ。
これが、後々、如何に悪影響を及ぼすことになるか。自覚症状がないだけに恐ろしい。ことに幼少の頃から、そのような状態の者は途中で何らかの、症状を抱えることになるし、ある年齢に達すれば、大病さえ引き起こす原因となる。今、来られているクライアントの90%以上はそのような人たちである。
頭蓋の動きさえ正常になれば、どんな症状も軽減されるというものではない。理由は2つあって、一つは長い間、抑制が続いた者はそう簡単には正常に戻らないからである。つまり、一時的に動きが回復してもまた元に戻るということだ。ある年齢を超えると(一概に幾つとは言えないが)、実に頑固な固着があって、往生する。フルフォード博士の影響を受けて、手技を主体に行っているD.Oは主に小児科医として活躍しているとのことだが、故なきことではないのである。若ければ若いほど、固着が進んでいなくて、改善が早いということだ。
もう一つの理由は頭蓋の動きの抑制だけが、現症状を呈しているわけではないということである。その他に身体の各所にエネルギーブロック(組織拘束)が発生していて、それを解放させてやらねばならない。大人は特に身体の分節化が進んでいて、部分のエネルギーブロックが起きている。大概は各関節部に拘束があるのだが、大きい関節だけでも。膝関節、股関節、肩関節・・がある。これら関節のブロックを解放するという作業もまた必要なのである。また、背中や首のリンパ流の改善もまた不可欠の場合が多い。時間がかかるということである。手技とは本来、時間のかかるものであるが、それをやり続けると、こちらが疲れてしまう。そこで、パーカッションハンマーなど、器械に代用させるということになるが、日本人の場合、治療とはいっても、そこには何らかの癒しを求めてくるので、器械を使う施術者には抵抗がある。中々、難しい問題である。今のところ、全て手で行うやり方をとっているが、いずれパーカッションハンマーを使うにしても、手の感覚を磨くためにも全て手技で行うことは、施術家として通らねばならない通過儀式ではないかと思う次第である。(フルフォード博士は90歳まで現役の治療家であったが、患者の年齢制限を設けたことと、パーカッションハンマーの恩恵が大である。つまり、自身のエネルギーを節約したわけだ)。私も60歳になったら考えてみよう。
ページtopへ↑
施術雑感(18) オステオパシー的に捉えた足底療法 2005/6/26
生命、知性の座である脳の働きの抑制は、素人が考えても、マズイのではないかと思うだろう。その通りである。脳の働きの抑制は、脳の膨張と収縮によって分かり、外に現われてくる現象としては、頭蓋の微細な動きとして感知することができる。
連動する動きとしては、仙尾骨がある。これも何度も記述しているので触れないが、頭蓋と違って、仙尾骨は脳を保護する骨格ではない。にもかかわらず、頭蓋との連動によって、動きがある。仙尾骨の動きの原動力はなんであろうか。実はこれには諸説ある。微細な動きを認めるにしても、頭蓋との連動的な動きを否定するD.Oもいるくらいである。
何故動くかという理由については、未だ未解明の部分があるが、何故?という部分が未解明なのであって、仙尾骨のリズミックな動きについて否定するD.Oは少数派である。
それでも懐疑的なD.Oがいるくらいであるから、足部の微細運動については、ほとんどのD.Oは懐疑的であろう。
まず、何故、仙尾骨のリズミックな動きがなされるのかだが、医学的な説明と、伝統医学的な説明と、両方によって説明できる。
前者は、骨盤内臓器の固有運動が仙尾骨に伝わり、その動きがなされるというものである。骨盤内臓器の固有運動は知られているもので、腸の蠕動運動が有名であるが、それだけではない。臓器そのものに固有の動きがあって、それは、子宮にも前立腺にも卵巣にも、膀胱にもある。生きているということはリズミックなハーモニーを奏でているわけだから、動きのない臓器を持つ者は死人だけだ。
そのような臓器の固有運動が仙尾骨に反映され、リズムを紡ぎだす。そこで、何故、脳との連動が起きるのかということだか、これは、共鳴、共振現象に他あるまい。むしろ、バラバラなリズムを刻むということのほうが、理解し難いものである。赤の他人でさえ、共振が起きる。例えば、ルームメイトの生理周期が一致してくるというのは有名な話である。ましてや、同一人においてバラバラなリズムを刻むなどということは、考えられない。人の身体は調和し、バランスされてこその健康であるから、健康体においてはそのリズムは必ず一致してくるはずである。
後者は、少し理解し難いと思うが、東洋的生体エネルギー理論だと思って聞いて頂きたい。仙尾骨にはヨガでいうところのチャクラがある。これは霊的なエネルギーの眠っている場所とされる。同じく、眉間にも、頭頂にもチャクラがある。普通は眠っている状態であって、これを活性させるのが、ヨガの修行の目的となるわけだ。現在、流行っているヨガはエクササイズヨガとなって、だれでもできる利点はあるが、基本的には単なるストレッチ運動と変らない。気功が普及しすぎて単なる型による体操になってしまったのと同じ轍を踏もうとしている。まあ、人のビジネスにケチをつける必要もないが・・話が横道にそれてしまった。要するに、ヨガというのはチャクラを目覚めさせることが目的なのである。身体を柔らかくしたり、スリムな身体を作るのであれば、真向法などで充分であろうし、実践しやすいものだ。
このチャクラは仙尾骨で発生させて、上昇させていき、やがて眉間、頭頂へと達する。この時、チャクラが開く、つまりクンダリーニという霊的エネルギーが活性せねばならないのである。これは相当に修行を積まねばできぬことである。しかし、だれでも持っているエネルギーであるため、活性しないまでも、その胎動は誰にでもあるわけだ。この胎動こそが、仙尾骨の微細な動きの原動力となる、と説明される。実にオステオパシーとヨガは深い関係があったのである。仙尾骨のチャクラの胎動、眉間、頭頂のチャクラの胎動、これらの関係に共振現象が働かないという理由はない。
さて、足部の微細運動であるが、これは、あるということを証明するのは難しい。私はあるということを知っているのである。知っているということと、証明するということは別問題である。足はその周辺に臓器があるわけでもないし、足裏のチャクラなどというのは一般的ではないだろう。かろうじて、古典の教えるところでは、何度も記述したが「真人は踵をもって呼吸す」という言葉が残されている。呼吸とは動きである。勿論、気の呼吸、オステオパシーでいうところの一次呼吸のことであるが、一次呼吸とは動きを伴っていたので、名付けたわけだ。であるなら、踵(足裏)で呼吸す、ということが本当であれば、動きを伴わなければならない。う〜ん、これでは仮説にもならぬか・・
ただし、足底部と頭頂部は直接的なつながりがある。これは身体力学的に証明されている。
重力線が頭頂から真っ直ぐに足底部、足心よりやや後方に下りてきていて、その反発する重力力線が頭頂から抜ける。勿論、脳幹、小脳や延髄部を通り、大脳を貫通する。脳の膨張、収縮を生み出すエネルギーの一つに、実は、脳を貫通する、反発する重力力線が関与しているのではないかというのが、私の推論であった。仏足跡における足心の構図なども足の一次呼吸の状況証拠となるだろう。あくまで、状況証拠ではあるが・・
足底療法を長くやってきて、足が脳に与える影響が大であるということを感じてきた。これは、ながく足底療法に取り組んできた施術家なら、同意して頂けるものと思う。
ただ、同意する施術家であっても、その理由については反射区刺激による反射が起きたという解釈しかしていないと思う。しかし、私は、足心、若しは若干その下の部分で一番、脳に与える影響が大であると認識している。頭部の反射区(拇趾)よりもである。これは不眠に効くという「失眠穴」がこのあたりにあるという事実からも分かるのではないだろうか。であるならば、足底押圧の意義の一つには歪んで重力線が頭頂を通らない、つまり、脳の膨張と収縮が起きづらい一群の人たちに、人工的な重力線を与え、頭蓋の動きをよくするということではないかと思うのである。(勿論、足を揉む意義はそれだけではなく、複数の理由があるのだが、それについては対談等を参照して頂きたい)
リラクゼーションリフレが流行る前には“足揉みは痛いが効く”というのが一般的であった。これは期せずして、脳の膨張、収縮を促進させ、頭蓋の一次呼吸を回復していたというのが理由の一つであろうと思う。仮にフリクション系施術であっても、リラクゼーション程度の施術より、余程、影響を与えていたと推察できるのである。
単純推圧による深い深い按圧で安定させるほうが、もっと影響を与えることできるのは言うまでもないが。
そして、足自体にも一次呼吸による“動き”がある。これは何度も言うように、現時点では証明できぬ。そのような装置を開発して計測すれば、一番手っ取り早いのだが、全くの器械音痴でどのようにそんな装置を作ればいいのか、見当もつかない。外注するにも財力に問題がある。1930年代、頭蓋が動くとした理論が発表され、それが、証明されたのは1970年代であった。実に40年もかかっている。今はテクノロジーが発達して、お金さえあれば装置を作ることも可能であるが、そんなことにお金を出してくる人はいまい。
しかし、足は間違いなく、膨張と収縮を繰り返して、リズミックな動きを行っているのである。これは予想ではなく、信じているのでもなく、知っているのだ。心の眼でみればそれがはっきりと分かる。
長い経験を持つリフレクソロジストなら、足を見た、或いは、触った瞬間に感じる精気のない足の感覚をご存知だろう。それは、硬い、柔らかい、冷たい、暖かいという、触覚を超えたもの、つまり直感的に感じるものである。極端な話、命が尽きようとしている入院患者の足のようなものである。身内として、そのような足に触った経験のある者もいよう。
その者が重体で、足に精気を感じなければ、余命はいくばくもない。逆に精気を感じれば、まだ持つ。かつて、知り合いのご婦人が、身内の看病を続け、薬石効なく亡くなった。その方がシミジミと言っていた。「人は足から死ぬ」と・・蓋し名言である。勿論、医学的には人は脳から死ぬのであるが、そのご婦人は身内の方の足を毎日、毎日、サスリ続けたわけで、その実感が言わせたものだろう。反射区図表の一大勢力を持つに至ったヘディ・マザフレ式は、自身が看護師であった経験からのものであった。常に患者と接しうる立場だったわけだ。恐らく、足と寿命の関係を直感的に感じたあたりから、独自の解釈をしていったに違いない。この反射区図表は理論的な投影図とかなり異なる。実際の臓器の位置関係と異なる配置をしているのであるが、経験知を優先させたものと思われる。他のリフレ研究者の反射区図表より、臓器の配当の仕方が論理的ではないのである。だから、信用できる。机上で考える者より、多くの病人と接する機会を得ていた者の方が確かな目を持つ。現場のことは現場に聞かなければ、分からないのだ。
また、横道にそれてしまった。ともあれ、若し、直感的におかしいと思ったなら、それは呼吸していない足であり、リズミックな膨張と収縮が行われていない足である。
熱心に施術をしていると、やがて、変化を感じる。その変化は人によって捉え方は違うものの、抑制されていた気の呼吸の回復であり、ブロックされていたエネルギーの解放である。
ページtopへ↑
施術雑感(19) OA病 2005/7/17
本来、百話で取り上げる話題なのかも知れぬが、特定の誰というわけではなく、あくまでも一般論として述べてみたかったので、雑感で取り上げることにした。
ともかく、このOA病というかOA症候群とも言うべきものか・・これが恐ろしい程までに増えている現状ではなかろうか。ご同業に方には同意して頂けるものと思う。その他、ディスプレイを見つづけることによって起きるVD症候群やら頸肩腕症候群やら、その事例はやたら多い。
パソコンを始めとするOA機器が人の身体を少しづつ蝕んでいるような気がしてならない。このまま行けば一体どうなってしまうのだろうか・・同様の感想を持つ施術家は多いだろう。それほどまでに、症例が増えているということだ。一連の癒しブームとパソコンの普及とは比例関係にあるような気がしていたが、若し、そうだとすると、この先、さらに増えることがあっても減るということはないだろう。余程の技術革新がない限り・・・
私事で恐縮だが、私はこのようなまとまった文章を書く(パソコンキーを叩いているのだが)とき、基本的に施術はしない。勿論、メールの短い返信くらいはするが、まとまった文章を作る作業と施術とを組み合わせてスケジュールを組まないのである。主に、休日などを利用してパソコンに向かう。であるから、あまり、影響を感じていなかった。ところが、先日、夕方からの施術しか予約が入っておらず、ただボーッとしていても仕方ないので、百話その他のストック原稿を書くことにした。文章作成というのはノリである。ノラないときは全く書けないのだが、ノッテくると、時間も忘れて集中してしまう。ふと気が付くと、2時間や3時間などあっという間である。その日は実に6時間近く、パソコンに向かっていた。クライアントが来る直前まで向かっていたのである。
初めての経験であったが、実に驚くべきことが起こったのである。力が入らないのだ。全くといっていいほど力が入らない。施術は力でするものではない。これは何度も述べているし、生徒にも教えている。事実、一日、10時間近く、施術することもあるが、そのことによって、力が落ちて来たりすることはないし、やろうと思えば、最後に行う施術でもその日最初に行う施術よりも力強くすることはなんの造作もないわけだ。だからこそ、施術は力で行うものではない、「勁」を発することである、と言ってきたのである。とは言っても、必要最小限の力は必要である。歩くにも筋力が必要なように―病床で長く臥せっていると、筋力が衰え、歩くこともままならないだろう―ちょうどそのような感じで手指が震えてしまったのである。勁を発するのに必要な基本的な筋力がなくなっているわけだ。一体、どうしてしまったのだろう?少し、大げさかも知れぬが、初めての経験でパニクってしまった。
私のHPを見るくらいであるから、読者はOリングテストというのはご存知だと思う。片手でOKサインのように人指し指と親指でリングを作り、もう片方の手にテストしたいモノを持つ。そうしておいて、他人にリング状にした指を引き離してもらう。このとき、テストの対象になったモノが身体に合うものであれば、指は堅く閉ざされ、引き離されることはない。或いは引き離されたとしても、協力者が相当に力を入れぬと、引き離されない。
逆に身体に合わないモノを持ったとき、いとも簡単に引き離されてしまう、というものだ。
暗示効果云々という人もいるので目隠しテストをするが、それでも全く同じ結果になる。米国で活躍している大村博士という方が発見した原理なのでその頭文字をとってOリングテストというらしい。指でOの字を作るからOリングというわけではないのだそうだ。つまり、原理的なことを言っているのである。それは、物質からある種の波動が出ていて、それを人間の身体は敏感に感じ取り、微妙に筋力に影響を与え、合わない物質の波動は筋力を弱めるという原理のことを言っているわけだ。今の科学では完全に解明できぬものであるが、実際、様々なモノで試した結果、これは信用に足るものではないかと思う。(足の施術クリームも試したが、やはり安い市販のハンドクリームは成績が悪い。私は施術時にクリーム等は使わないので、半分遊び感覚ではあったが、スタッフの追試も全く同じ結果であった。施術にクリーム、パウダー、オイル等を使用する施術者は考慮したほうがいいのではないか。勿論、高ければいいというものでもないだろうがー輸入品で高価なクリームも非常に成績の悪いものがあったー自分で試すことをお薦めする)
それはさて置き、施術時に力が入らず、多少パニックに陥ったとき、このOリングテストを思い出した。実に不思議な感覚なのだ。パソコン操作で腕に負担がかかり単に力が入らなかっただけだろう、という向きもあるかもしれない。しかし、腕の疲労感が全くない。それに、パソコン操作(単に原稿を打ち続けるだけだが)は慣れていない動作でもない。ワープロ時代から考えると、もう8年もキーボードを使って文章を打っている。公表、非公表を含め、延べにすると原稿用紙換算で数千枚にもなろうか。一応、余計な力が入らずスムーズに打てるつもりだ。それに自分で文章を考え、打っていくわけだから、打つ作業自体は休み、休みである。だから、腕の単純疲労だというのは考えづらいのだ。
だとすれば、何なのか?大村原理のような気がしてならない。パソコンから出る電磁波様なある種の波動が筋力を弱めたとしか思えないのである。施術をするまで、まるで分からなかった、これほど力が入らないとは・・意識に上ってくるほどの筋力の減衰ではないのである。しかし、いざやろうとすると、まるで病人の萎えた足のように力が入らない。
読者諸氏よ、だとすれば恐ろしいことだとは思わないだろうか?
私はたまたま、施術という微妙な筋バランスを必要とする行為によって分かったわけだが、知らずに筋力の減衰が起きている者がほとんどではあるまいか。それが、所謂、OA病の原因の一つと考えていいのではないか。勿論、姿勢や目の酷使も原因のひとつであろう。しかし根本にはある種の波動を浴びての結果ではなかろうか。
合気道の創始者にして天才武道家と言われた植芝盛平翁は電車に乗るのを極端に嫌がったという。彼の壮絶な修行と天性の才能によって獲得した身体感覚は、電車の中の電磁波を微妙な筋肉のアンバランス感として感じ取っていたに違いない。一種の不全感としてである。電磁波は巷に溢れかえっているものであるが、特にOA機器の操作は身体の身近で行うものだけに影響が強い。今、植芝翁が生きていれば、パソコンの前に行くのを、電車同様嫌がるに違いない。きっとインターネットもしないだろう。
こうした表現は誤解を生むだろうから、言っておきたい。あくまで長時間の操作が問題だということだ。人の身体には浄化力があるので、それほど長い時間でなければ影響はかなり限定的だと思う。事実、私は休日、一日一杯パソコンに向かっていても、翌日の施術には影響がないし、ちゃんと力が入る。今回はパソコン操作のあと、すぐに施術をすることによって、分かったことなのである。
しかし、毎日、仕事として1日何時間もパソコンに向かわざるを得ない人達はかなり影響を受けているのだと思う。施術家ではないので筋力の減衰という直接的な形で分からないだけで、別の不調として感じられる。それがOA病の正体であると思う。筋力の減衰として感じられるということは、骨格筋はいうに及ばず、内臓もまた平滑筋というリッパな筋肉の一種であるから、内臓に支障をきたす場合もあるだろう。いずれにせよ、なんらかの形で影響を受け、不調をかこっているわけだ。
さて、どうしたものか・・・今後、益々、このテの人たちが増えていくことは述べた通りである。その場、楽にすることは可能だし、東洋医学的には邪気を抜くという操作で有害な電磁波は抜けていく。しかし、また仕事に戻り、OA機器に囲まれ、パソコンに向かうなら同じことの繰り返しとなろう。現代ではそれを避けて通れないのである。仕事を辞めるというのも、糧がなくなるわけだから、現実的ではない。やはり、ある一定期毎に施術に通って貰わねばならないようだ。溜まりすぎて爆発する前に・・癒しの仕事は今後、益々、必要不可欠であって、決してなくなるものではないということが分かる。食事を取らないという人がいないのと同じで、定期的な施術が生活の中に組み込まれる日も来るような気がする。自分の健康は自分で守るといっても防ぎようのない環境に置かれているのが現代という社会である。よきホームドクターを見つけておくのも必要だが、よき施術家を見つけておく必要のある社会になってきたようだ。
肩がコリ、首がコル。背中が張って、腰が痛い。冷え性で、便秘がちだ・・どことは特定できないが、調子がよくない。これらは全て未病である。未病を放っておくと必ず大病を呼ぶ。現代社会は若い人や子供まで、これら未病を起こさせる環境に置く。この人達が中年以降に達したとき、どうなるのであろうか。年金だけの問題ではない。医療保険も遠からず破綻する。医師会の強い反対がなければ、個人負担5割というのはアッサリと決るだろう。かといって、アメリカのように医療保険を民間に移行させたら、低所得者は保険料を払いきれず、医療を受けられない。そうすれば平均余命が下がる。ただでさえ、少子化である。かつての経済大国の昔日の面影はなく、一部の富裕層と大多数の貧困層に分かれ、ごく普通の国となろう。普通の国になるというのはこういうことなのだ。私も30年もすれば、平均寿命から言えば死ぬ年頃だ。日本が衰退したあとの姿は見ないで済むギリギリの年齢である。しかし、子供や若い人達にはまだまだ未来がある。この人達につらい思いさせたなら、それは今の大人の責任である。一介の施術者風情が何を大それたことを、と思うかもしれない。
しかし、少なくとも自分の立場で自分のできることを全うしたいと真摯に願ってきた。技を磨くのも、人に教えるのも自分のためだけではない。縁した人は全て少なくとも健康寿命を延ばして、なるべく医者の世話にならぬようにとの気持ちであった。その人の将来のコストを引き下げようと努力しているのである。他の施術者も同じ気持ちであってほしいと切に願う。
OA病の話から飛躍した話になってしまった。仕事の環境が精神的なストレスのみならず、物理的に身体に悪影響を及ぼし得る時代だということを言いたかった。子供の頃、テレビゲームなどなかったし、社会に出てもコンピューターは特殊な道具であった。今はごく普通の環境として回りにある。パソコンをいじらないで済む仕事はかなり限定的なものだ。これが亡国を増長していないと誰が言えるのか。日々、現場にいてそう思う次第である。
ページtopへ↑
施術雑感(20) Q&A 2005/8/29
このHPで一番更新が遅れていたのがQ&Aであろう。
実際は実に多くの質問が寄せられ、その質問に個別に答えてきた。
しかし、質問は個別的で極めて特殊状況下にあるものが多い。このような質問に答えるとき、当然、極めて個別的な回答をせざるを得ない。これはあまり一般的ではないし、そのようなクライアントに遭遇するのは一生に一回あるかどうかでもある。また、なんとも返答に困ってしまう質問もあった。だか、その質問の中には、分解するとかなり普遍性のあるものもあるし、日頃、考えて来た類の質問もあったのである。そこで、多数の質問から、個別的特殊性を取り除き、より普遍性のある項目をピックアップしながら、質問を再構成して、回答を一般論に置き換え作ってみた次第である。であるから、本来は一つの質問がHP上では二つの質問になっている場合もあるし、複数の質問が一つに代表されている場合もある。だから、質問の最後に(要旨)と記しているのである。是非、ご了解頂きたい。
習ったばかりでは覚えるのが精一杯で、何が分からないのかさえ分からないという状況が多いのではなかろうか。しかし、実践を行うにあたって、疑問にぶちあったってくる。このとき、曖昧なままにすれば、ずっと曖昧なままである。適切な時期に質問はしてみるものだ。こんな話を読んだことがある。ある大学である学生がどうしようもない質問をしてきたのだそうだ。それは突飛なものであったり、本質的なものではなかったり、あるいは授業を聞いていれば、質問するまでもなく分かる事柄であったり・・教授は段々、不機嫌になって、そんなのはテキストを読みなさい、と語気強く叱ったこともあったということだ。ところが、その生徒はメゲルことなく、相変わらず授業が終了後に質問しにいった。教授はもう諦めて、いかに的外れな質問でも熱心であることには変りはないと思って、それなりに対応してやったのだそうである。それからそんなことが一年位続いた。さて、一年後、そのクダラナイ質問する生徒はどうなったか。なんと、実に的を得た別人のような質問をするようになっていたとのことだ。まるで教授と専攻が同じである同僚のような鋭い質問を放つようになったという。大学をギリギリで受かったのか、コネ入学で入ったのかと思われていたデキの悪い生徒は質問を続けることによって、学年が終わるころにはクラスでもトップクラスの成績になっていて、卒業時にはなんと首席だったという。その生徒は社会に出ても、指導者層の一員として、活躍したそうである。(今現在も)
この話は参考にならないだろうか?
今更こんな質問して恥ずかしいとか。基本的な事項過ぎてとても質問できない、とか思っていないだろうか。私に習った人は私に聞くしかないだろう(なんと私に習ったことのない人が質問することもあるぞ)。こんな質問はクダラナイと思って蔑むようなことは絶対しない。勿論、あまりに個別過ぎて、答えられない場合もあるだろう。わたしとて全てを知っているわけではない。しかし、分かる範囲で答えてやろうと思う。ただし、忙しすぎて、すぐには返信できないこともある。遅れても必ず、回答しよう。遠慮なく質問すべきだ。そして、その質問の中にある種の普遍性が含まれていれば、質問を再構成してHPで公開する。今後、このQ&Aは実に多岐に渡る問題を取り上げることになると思う。結構、面白いものになっていくに違いない。あと数十回分位のネタはあるが、ネタは多ければ多いほどいいに決っている。
(結構、大変だけどね)、
ページtopへ↑
|