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施術雑感



随時追加掲載

施術雑感(21) 勉強会T 2005/12/5
施術雑感(22) 勉強会U 2005/12/11
施術雑感(23) 施術百話第16話に関連して 2005/12/31
施術雑感(24) カウンター・ストレイン 2006/2/18
施術雑感(25) 足のカウンター・ストレイン 2006/3/4
施術雑感(26) アンチ・エイジング 2006/3/4
施術雑感(27) 肩コリの原因 2006/3/24
施術雑感(28) 共感原理 2006/4/25
施術雑感(29) 上達の早道 2006/9/14
施術雑感(30) バナナ酢 2006/9/14
施術雑感(31) 問題の所在 2006/10/7
施術雑感(32) 押圧 2006/11/4
施術雑感(33) 脳の拍動 2007/1/20
施術雑感(34) 全息胚診断 2007/2/16
施術雑感(35) 癒しの本当の意味 2007/8/9
施術雑感(36) クライアントが寝入るということ 2007/8/27 up



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施術雑感(21) 勉強会T 2005/12/5

毎月、第三水曜日に行うので、「三水会」と称して、勉強会を行っている。今月で11回目となる。参加する人がいる限り、続いていくことと思う。8回目までは、筋肉関係及びトリガーポイント。それも一応、終了したので、9回目からは脊椎間の同期現象(メリック・チャート)を行った。9回目はそれだけではなく、私の専門外中の専門外であるアロマクリームの作り方を参加者が専門にしていたので、お願いして講習してもらった。和気あいあいと参加者達が作るところを見て、こういうモノ作りの楽しさを知った次第である。さて、何故、このような自然派クリームの作り方を取り上げたかというと、足の施術にクリームが必要だからである。今の私は施術自体が単純推圧であり、安定持続圧のみの押圧なので、クリームは使わない。しかし、いきなり、このような施術で全編通すことは難しいので、深く入れることを基本にしながらも、若干のフリクションを入れるというのが最初の手技となる。そうすると、必然的に摩擦から皮膚を守る為にクリームかオイルが必要だ。オイルを使うとなると、オイルマッサージということになってしまうので、やはり、クリームが一番使い勝手がいい。そうであれば、当然、身体に良いもの、最低でも害がないものが良いに決っている。

もう20年近く前になろうか。中国で漢方医(正式には中医という)をしていた先生と話していたときのことだ。何気にその先生が薬用人参(朝鮮人参のこと、何故か中国人は朝鮮人参とは言わない)の加工工場の話をした。曰く、そこで働いている女工さん達はとても健康的で風邪一つ引かない、しかも肌がきれい、だと・・恐らく、加工の際に飛ぶ、薬用人参の微粉末を微小吸い込むからだろうと、言っていた。薬用人参は上薬中の上薬。少量を毎日、服用することによって、不老長寿を得られるとしている、歴史上、もっとも有名な生薬である。なるほど、さもありなん、と思ったものである。
私の生まれ故郷の近くにミンクの毛皮加工工場があった。ミンクの皮を素手で取り扱い、素手でなめしていくらしい。ここには一つの伝説があって、そこで働く女工さん達は皆、手がスベスベでキレイであると・・実際、その通りなのだが、毛皮を毎日毎日、素手で触ることによって、微量のミンク油が手に染み込んで、そのような現象が起きているらしい。

別に薬用人参やミンク油の宣伝をしてるわけではない。
施術者にとってはクリームが必需品であり、しかも毎日毎日使うものであるならば、薬用人参加工場の女工さんのように、ミンク毛皮の加工場の女工さんのように、最低でも手がキレイになり、身体に良いものを使わないと損だ、ということを言いたかった。
合成界面活性剤や化学的な防腐剤、酸化防止剤、鉱物油、着色料、合成香料などは抜かねばならないだろう。さらに肌から身体に浸透し、よい影響を与えるものであれば、ベストである。実際、市販のものでそれを実現しようとすると、コストの問題でバカ高くなる。一日何人ものクライアントに対して使うものであるから、女性がへそくりで買う高級化粧品を湯水の如く使うに等しい。現実には無理だろう。
そこで、自分で作ったらどうか・・精選した原料を手に入れ、自分でクリームを作るのである。そんな発想から、この度の勉強会のテーマになった。今回の講師は、そのようなクリームをアッサリと作って、自分のサロンで使っているということだったので、是非ともお願いした次第である。クリームを自分で作るなんて、ちょっと想像しづらいものだったが、これが実に簡単で楽しい。勿論、化学的な合成物は一切入っていないし、アロマエッセンスも自分の好みで入れられる。ベースオイルは麻油(ヘンプ)で乳化剤を使わず、ミツロウで固形化する。麻油は浸透力が高いということで、今、注目されているオイルである。ミツロウもまた、昔からあるものであるが、それ自体に有効成分が含まれ、再認識されているそうな。アロマエッセンスについては言うまでもない。アロマテラピストなら、エッセンスに関して深い知識も必要であろうが、基本的な注意事項を知るだけで、クリーム程度なら、OKである。コストも材料費だけで済むので、高コストは避けられる。

身体に良いものを微量、毎日、摂り続けるというのは、先の薬用人参、ミンク油の例をだすまでもなく、重要なことである。企業はコスト削減、金にならぬものは皆、削るという姿勢だから、このような贅沢は個人開業者だけに許されたささやかな報酬であろう。

参加者は早速、自分のサロンで使いはじめた方も多い。お客様も良い反応を示してくれるとのこと。敏感な方は「暖かい感じがする」とも、「とても安らぐ」とも言うらしい。何よりも施術者自身が癒されるという。なるほど、身体は敏感だ。

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施術雑感(22) 勉強会U 2005/12/11

脊椎間の同期現象については、前の項で少し触れた。Q&Aでも触れているかもしれない。
要するに、ある脊椎骨が歪むと、ある脊椎骨が同期して歪むという法則のことである。
この法則を知っていると、とても便利である。症状から、その原因を探っていくこともできるし、複合的な症状を分解して考えることもできる。勿論、それだけが原因だということはないのだが、手ががりは多いに越したことはない。
第一頚椎と第五腰椎の同期現象は、肯けるシーンに遭遇することが多い。第一頚椎が歪むと脳の血流量への影響は避けられない。一方、第五腰椎の歪みは下肢、特にくるぶし周りの腫れとして出やすい。頭的な問題を抱えていて、くるぶしがハッキリしていない状態の者は、間違いなく第一頚椎―第五腰椎症候群だ。或いは、蓄膿症気味で、坐骨神経痛持ちは、第二頚椎―第四腰椎症候群である。このように、大雑把にあたりをつけることができる。若し、本当にそれが原因なら、施術は格段に効く方向へと向かう。トリガー理論とともに、この原理(メリック・チャート)は施術家が理解して置かねばならない重要な理屈の一つであろう。ということで勉強会の題材にしたわけである。今、ピンとこない人も、将来必ず役に立つ。リフレクソロジストにとっても東洋医学的な考え方とともに、このような理論を身につけると、飛躍的に身体の理解は増す。
例えば、下肢がムクミ気味で首肩のコリを強く訴えるかクライアントが来たとする。
術者「首、僧帽筋の反射区が堅く(柔らかく)、問題がありそうです」
お客「そうなんですか・・で、楽になるのかしら・・」
術者「勿論です。少し通って頂ければ」
お客「日常、自分で出来ることや、注意すべき点は?」
術者「自分で自分の足を揉んで下さい。特にこことここ」
お客「わかりました・?」
なんという説得力のないカウンセリングであるかことか。反射区をみて、どこそこに問題がありそうだ、などというのは、誰でも言える。この場合、第一頚椎と第五腰椎の歪みが訴を招いていると指摘し、それがそのまま足に出ている旨を述べたとしたらどうだろう。ぼってりとした足と、首の可動域の狭さだけで、指摘できるものだ。反射区を精査する必要もないし、逆に反射区にこだわり過ぎると、こんな単純なことを見落としてしまう危険さえある(忠実に反射区に投影されていない場合もあるわけだ)。日常の注意点としても、枕が合わないと(頚椎)、むくみも(腰椎)も解消できないということをアドバイスできるし、重いものを不自然な姿勢で持ったり、足を組んだりすれば、首や肩のコリが増悪されるということもアドバイスできるだろう。一つの原理を知れば、臨床で使い、尚それをカウンセリングでも応用できる。また、応用が応用を生み、長くやっていけば独自の施術感が醸成され、余人を持って替え難しというレベルにもなろう。経験と勘も重要だが、やはり、既存の原理を身につけたところからスタートすることが、早道である。そのことを踏まえることによって初めて、経験がモノを言い、勘の冴えが的確な手技を選択する原動力となると思う。
いつも思うことだが、リフレサロンの中には、暇なときは外でチラシ配りをやり、施術は施術で教えられたとおり、時間内に終えるべく、黙々、淡々と行って、カウンセリングもなく、終わったら、お客にトットと帰ってもらい、今の施術の反省もなく、間置かずに次の施術に移り、自身へのフィードバックもヘッタクレないという仕事環境のところがある。
こういうところで働いている人達は仕事が面白いのだろうか?身体に対する新しい知見を知る喜び、実践の中で自分の読みどおりに身体が変ったりする現象を得た時の感動・・それらもなく、肉体労働と接客技術だけで、この仕事は成り立ってと思っているのだろうか。経営者からしてみれば、個人による技術の差異はないほうがいいに決っている。誰であろうと、同じような技術で、同じ時間内で、同じことをやっていくというのが、その会社のノウハウであり、会社を円滑に運営する秘訣でもあろう。しかし、働いている個人からすれば、ロボットのように同じようなことを繰り返さざるを得ない単調な単純労働を強制されているに過ぎない。施術は知的労働なのである。どうも改善が今ひとつだ、どうも今一歩、入りきらない、それらをいかに解決するか、知恵を使い、知識を駆使し、考える。考え続ける。考える為の材料がなくなったら、それを得るべく、それらに関連すると思われる本を読み漁る。そして一つの回答を得る・・・このようなサイクルの中に喜びを見出す種類の仕事だと思う。
勉強会では、考える為の材料を提供している。施術の現場では予期せぬ人たちが来るだろう。初めてお目にかかるような症状を持つ人もいよう。一つの原理の応用で済む場合もあるし、全く新しい視点が必要な場合もある。施術者自身にたくさんのポケットがあれば、それだけ多くの応用もできるし、複眼的な思考もできよう。そうなればしめたもの。経験と相まって加速的に対応力がついてくる。また、自信も湧いてくるというものだ。

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施術雑感(23) 施術百話第16話に関連して 2005/12/31

百話の第16話で、ツボ―スイッチ論を少し述べた。
ツボというのは本来特定できるものではない。万人に通用するルールはないのである(フルフォード博士)。では、特定できないツボをどう探すのか。症状によってツボが決定されるなら、こんな簡単なことはない。まる暗記してしまえば良いからだ。ところが、人によって訴に至る原因は様々であるし、身体の状態も違う。であるから、機械的な暗記では役に立たないということになる。ツボの名前と位置についてよく知っている人がプロなのではない。素人が趣味で行うにはいいが、施術家として、人の身体を扱う資格はないだろう。
(鍼灸はそれが最初になるだろうが、今は手技について述べている)
クライアント自身が自分のツボのことを良く知っていて、そこ、ここ、を押されると、例えようもなく気持ち良い、と言ってくれるなら、それを目安に探すこともできよう。しかし、大概はクライアント自身も知らないのだ。押されて初めて、そこ、ここ、が効くとか気持ち良いとかが分かるケースがほとんどである。
ツボ―スイッチ論で言えば、仮に一箇所そのような場所が分かったとしても、複数あると、もうクライアント自身に指摘させるのは絶望的だ。人によって違うツボを押圧箇所を変えて押し続けると何千箇所にもなる。一日がかりの話になってしまう。しかし、よくしたもので、いくら人によって違うといっても、身体の基本構造は同じであって、共通の原理もまた存在する。基本的な構造や共通を原理を頭にいれて置くと、さほど、外れないで済むものだ。まず、共通の原理として言えるのは、スイッチの入るツボというのは響きが伴うということだ。気持ち良いというのも同じで、仮に意識上に上がらなくとも、必ず、響きが伴っている。ただし、気持ち良いと表現される言葉の中には様々な要素があるので、効くという感覚を伴った気持ち良さのことであると限定すべきではあるが。

さて、この響きというのは、直接的には神経を通じて感じる。勿論、敏感な体質の持ち主なら、細胞間伝達、つまり経絡的響きをも感じるが、多数派とは言えないだろう。もともと神経は経絡がある働きに特化し、進化したものとも言える。多細胞生物において、細胞間伝達のみで情報をやりとりするとなると、時間がかかりすぎる。それはそれとして、ある情報を大量に迅速にやりとりしなければ、生き残っていけないという必要性から生まれたのである。細胞間伝達ではなくて一個の細胞が長く伸び、直接的に情報のやりとりをするようになったわけだ。さらにそれらを統御する必要性から、神経末端が肥大して脳が生まれた。司令塔の役割である。さらに、脳への過剰負担を軽減するため、各所に限定的ではあるが、脳の役割の一端を担う部分も発達した。「民間にできることは民間に」という小泉純一郎的発想が生命にはあったのかもしれない。代表的なのは腹腔神経叢であろう。人間なら誰でも持つ基本構造である。これを大きく逸脱しているのは最早、人間とは呼べない。宇宙人ならそうかもしれないが・・(宇宙人の施術は残念ながらやったことがないので断言できない)

閑話休題
各サーバーと各パソコンを繋ぐ光ファイバー網が構築されたようなものである。迅速かつ大量の情報のやりとりが可能になった。ただ、インターネットとの違いは大元で統御するマザーコンピューターがあるということである。つまり、脳があるということだ。(ネットにはマザーコンピューターがない)
さて、少なくとも神経的に響きが起きやすいところは、各所の神経叢の近くである。例えば腕神経叢、頸神経叢、腰神経叢、仙骨神経叢・・etc。しかも、そこから出て、神経が表面に浮き上がってくる箇所がある程度特定できる。個人による差異もあるが、その差異はかなり限定的なものである。実はこの部分が狭義の意味での「響き」が起きやすい部位でもある。例えば、肩コリや五十肩で正中神経が圧迫され、正常でなければ(自覚がない場合がほとんど)、腕神経叢への押圧によって腕や肘にビンビンと響きまくるし、肩甲背神経とも繋がっているので肩甲骨(大菱形筋、肩甲挙筋)へ響いていくこともある。このように神経を伝わる響きはクライアントにとっては自覚しやすいものである。そして、広範な作用を及ぼしていく(筋、筋膜拘束や自律神経など。そして脳へ)。このような箇所をピックアップしていくと、決して無制限の中から選択しなくとも良いのである。近年、鍼によって、このような部位を取穴しようとする試みがあるようだが、直接、神経に刺すというのは如何なものか。さらに電流を流すという話も聞くが、後に神経本来の伝達力を減衰させるのではないかと危惧する。やはり、このような影響力が強い箇所は最も自然な方法、つまり手技によって行うのが一番安全だと思う。

神経叢、若しくはその近辺においてスイッチを入れるツボが発見されるのだが、足裏はどうであろうか。浅学のためか、足裏神経叢というのはついぞ聞いたことがない。にも関わらず足裏においても響きが起きる。腹部までなら、かなりの人が感じるし、中には脳天まで響くという人までいる。ここに至ると神経的な説明だけでは無理がある。経絡的な発想が必要だろう。しかし、足裏は面積が狭い、土踏まずを中心に考えれば、満遍なく押してもさほど時間はかからないのが利点である。全身を対象に捜すよりはずっと効率的である。
足裏はロックを解除する暗証番号のうちの一つは必ず入っている。

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施術雑感(24) カウンター・ストレイン 2006/2/18

1954年、オステオパスであるローレンス・ジョン―ズ博士は実に興味深い発見をした。
どのような方法をもってしても良くならない、腰痛の患者の来院がキッカケである。整形外科的な処置でも、カイロプラクティック的な治療にも、全く応答しない症例であったそうである。当時、ジョーズ博士は42歳、治療家として脂のノリキッタ時期であった。当然、他の療法で良くならない患者に対してはある種の自信があり、考えられる限りの身につけた手技、またはその他の治療法を試みたと言っている。ところが、その患者は全く改善が見られない。痛みのための逃避的姿勢(腰痛者が痛みを庇うため、不自然な姿勢で立ち、歩く、というよく見かけるパターン)さえ、少しも改善しなかった。患者は痛みのため、継続して数分以上睡眠さえとれない状態なのである。ジョーンズ博士は自らの敗北を認めざるを得なかった。治療家にとって、これほど悲しいことはない。まるで自分が無価値に思えてくるからである。しかし、主訴は改善しないものの、少しでも休息を取って貰いたいという気持ちから、患者が一番痛みの少ない楽な姿勢をとるべく、患者とともにその姿勢を探っていった。この格好が一番楽だ、という姿勢を見出した時、それは今まで見たこともないような、摩訶不思議な格好であったという。その姿勢なら、わずかでも休息がとれて睡眠不足を補えるのではないだろうか。そんな気持ちで約20分ほど、放置しておいたのだそうだ。さて、20分後、うたた寝していた患者のところへ行き、家でもそのような姿勢でいることを薦めようとした。そして患者がベッドから降りて立ち上がってみると、驚くべき事態が生じていた。逃避的な姿勢が改善されていたのである。当然、痛みは大幅に改善され、ほとんど苦にならない状態になっているという。患者は大喜び、ジョーンズ博士は唖然とした。何かが起きたに違いない。ジョーンズ博士は熟練した治療家でもあり、研究家でもある。それに至る理由があり、再現性と普遍性があるはずだという信念のもとに、以降、実に40年以上にわたり、研究していった。それがカウンター・ストレインという技法である。

様々な試行錯誤の中で、ジョーンズ博士は苦痛が軽減される姿勢と、苦痛箇所とは離れた部位に圧痛点があることを発見した。そして、その姿勢(ポジション)になるよう術者が患者に対して誘導し、かつ圧痛点を軽く押さえておくと、1954年に起こった状況が再現されることが分かった。もっとも効率的な圧の保持時間は90秒であることも突き止めた。こうしてカウンター・ストレインという技法は、実用に耐えうるものに進化し、ジョーンズ博士は治療家達に自身の体験を共有してもらうために、啓蒙活動に力を注ぐようになったのである。

アメリカにおいて、手技法を主な治療手段にしている治療家はオステオパスは勿論のこと、数から言えば、カイロプラクターのほうが圧倒的に多い。彼らの手段は主に椎骨移動なのであるが、その限界もまた知っていた。カウンター・ストレインの存在を知ったとき、そんな方法でホントに改善されるのか?という疑心暗鬼的な気持ちが恐らくはあったであろう。しかし、徐々に取り入れる者が現われ、追試的な実証が積み重なってきた。今では、カイロプラクターの間でもポジショナル・リリースという名で多くの術者が採用するに至っている。勿論、オステオパシーでもそのままカウンター・ストレインという名で必須技法として認知されている。

さて、ここで興味深い事実がある。ジョーンズ博士が「圧痛点」と呼んだもの(ポジショナル・リリースではテンダーポイントと呼ぶ)の部位である。これは所謂、鍼でいうところの正穴とは必ずしも一致しない。むしろ、人によって違うランダムな「阿是穴」(あぜけつ)と同じ概念であろう。しかし、阿是穴という言葉が残されている以上、そのことに古代中国人は気づいていたものと思われる。ただ、日本の鍼灸の権威であった代田文誌博士は「阿是穴について述べると体系が乱雑になるため、正穴をもって治療して頂きたい」旨のことを述べているように、鍼で阿是穴を用いるのは鍼の性格上(皮膚を突き通し、刺激量が多い為、禁穴も多い)、指導者として、あまり薦められなかったのではないかと思われる。多分、名人が使う穴群だろう。

このように、古くは千年単位で遡れるほど昔から、個人特有のポイントのことは知られていた。トリガー理論でいうところの「トリガーポイント」も全く阿是穴としかいいようのないものである。また、増永師が指摘している「虚のコリ」というのも、フルフォード博士がいう「エネルギーブロック」、若しくは「組織拘束」というのも同じものだと思う。いずれも筋・筋膜、または腱、靭帯上のわずかな拘束状態が全体に多大な影響を及ぼす可能性に基づいた理論、技法である。
カウンター・ストレインにしても、ポジショナル・リリースにしても、経絡指圧にしても、トリガーポイント理論にしても、その拘束部位を除去するにさいして、決して強圧ではなく、安定的な持続圧を用いるのも共通している。ただし、フルフォード博士だけは安定圧に拘らず、揺らし手、バイブレーション的な手技を用いることもある。これは術者の好みによるかと思われる。部位さえ的確なら、揺らし手であっても拘束は除去されると経験から言えるが、安定圧のほうが、リアルタイムで緩んでくるのが分かるので、実感が得やすいものだ。しかし、強圧しないということは絶対的な共通事項ではある。

阿是穴にしても、虚のコリにしても、トリガー・ポイントにしても、その部位を発見するのは一種の名人芸が要求される。まるでポイントの違うところを押さえても、特に日本人がそうであるが、「何やってんだ、コイツは!」みたいなところがあって、まともにポイントを探す努力ができない。日本の場合、手技法家は法的に純粋な治療系の立場を確立できない環境にあるというのも、一因かもしれない。そこにはどうしても慰安的な要素が要求される。そうした意味でも、ある程度効くという感じを与えるため、それなりの圧力で対応せねばならないだろう。それはそれでいいとして、術者自身がそれで良いと納得してしまうことが、もっとも残念である。多少の上手い下手によって差別化し、これで良いとしてしまうのは全く進歩がない。個人固有のポイントを探る努力をすべきであろう。恐らくはここがそのクラインアントの固有ポイントである、と予測したならば、微妙に姿勢の変更を加えてみるとか。そのことによって、手指に伝わってくる感覚の変化を追う。そういう絶え間ない努力の末に技術が練磨していく。半年前と同じレベルでいては全く論外である、というくらいの意識を持って取り組むべきであろう。ワークブックなどを参考にしても構わないが、大事なのは手指に感じる定義不能な感覚を養うことである。様々な技術書に書かれている「経験を待つより他ない」とはこうしたことである。

日本において、手技法は大きく2つに分類される。一つはカウンター・ストレインの流れを汲むポジション系。極端な流儀では、クライアントにある姿勢をとらせたまま、術者はほとんど手を加えないというものもある。カウンター・ストレインの原型そのままと言えるだろう。無痛なんとか整体という名称を持つものに多い。もう一つは刺激系。自律神経などに影響を与えるには刺激閾に達しなければならない。その刺激閾を意識した方法論で、実に多様なやり方がある。既存の手技はほとんどこのカテゴリーに入ってくるものだ。進化したカウンター・ストレイン、ポジショナル・リリースは上記2つの方法の折衷型と言ってもいいかもしれない。刺激は準刺激閾値くらいの軽い圧で、ある姿勢に誘導する。両方の操作がシナジー効果を生み出す。
椎骨移動のアジャスターが時代遅れになりつつある現在、カウンター・ストレイン的な発想は重要である。そのような発想から独自の方法論を生み出している施術家も出てきた。少しずづではあるが、手技の世界も進歩しているようだ。

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施術雑感(25) 足のカウンターストレイン 2006/3/4

足だけを対象にしない手技法でも、その多くは足の重要性に言及している。そして、足の操作もワークブックなどに記載されている。カウンター・ストレインしかり、ポジショナル・リリースしかり・・・etc。しかし、足ばかりを長年やってきた私としては、それらの技法に物足りなさを感じている。勿論、なんちゃってリフレは論外だ。
リフレ以外の手技における足の操作は、基本的にクライアントをうつ伏せにする。うつ伏せがダメだという気はないが、呼吸器や心臓に負担をかけるうつ伏せは、なるべく避けたいところだ。しかし、仰向けで行うということになると、実は熟練が必要である。
仰向けで投げ出されたままの足というのは、基本的に不安定である。圧がブレてしまう可能性が強い。そこで、ブレないようにしっかりとホールドして置かねばならない。ホールドする手のことを補の手というのであるが、操作する手と連動し、一体化した状態でないと力ばかり入って、相手の身体に対する影響力がかなり減衰する。なにより自分が疲れてしまう。そんなことに労力を使うよりは、より簡単な方法で出来る方法論をとろうとするのは、必然なのかもしれぬ。技法よりも、どこが固有ポイントなのかを見極めるほうが、余程重要だという論点にたった考え方ではある。しかし、あえて言いたいのだが、仰向けにした状態のままの足に圧が自在にかけられるようになると、ほとんどの手技は難しくはない。微妙な凹凸に合わせて圧が垂直にかけられ、しかも、足自体のブレがないようにしておく術を無意識に行える術者なのであるから。これが行えると身体のバランス感覚が発達して、少しの訓練で様々な身体の部位に無理なく圧がかけられるのである。位置と圧度の問題は、依然残されてはいるが、少なくとも、押圧のコツみたいなものは身についてくる。私自身、あらゆる身体操作は独学であるが、それでも出来るようになったのは、足を相手に悪戦苦闘してきた歴史があるからである。実に不安定な足に対して、安定的な圧を保持しようとしてきた歴史である。これが安定圧でなくとも(揺らし手、マッサージ的技法)、同じで、簡単にできる。ただ、好みではないだけだ。手技療法家が足から入っていくのもまた、良いのではないかということが言いたいわけだ。ただし、うつ伏せではなく、仰向けでやるということである。仰向け足操作というのは、手技に必要な色々な要素が含まっている。的確に行おうとすると、最も難しい部位ではなかろうか。特に足裏は、分厚い皮膚、丈夫な筋肉、強靭な靭帯があるため、圧を浸透させるのが難しい。かなりの貫通力が必要だ。しかも不安定とくれば、足裏に安定圧を加える者が少ないのは分からなくもない。拘束を除去するというよりも刺激を送るという考え方に傾いていくのは、止むを得ない事情があるのは認めざるを得ない。

しかし、リフレ特有のやり方でのみ対応していると、全く進歩がなくなる。人差し指2本だけで足首の拘束を除去できる感動も味合えまい。カウンターストレイン系の技術は、絶妙なポジショニングが要求されるが、これは足裏への安定圧のバランス感覚とよく似ていて、恐らく足裏への安定圧ができる者は、容易にそのポジションを修得できるだろう。治療系のみに限っていえば、7割方の労力節約である(実際は慰安系も入るため、もう少し力も使うが)。
身体操作専門家は、足底筋、筋膜と「腰」の関連性について、ほぼ一様に言及している。これについてはまた項をあらためて述べたいが、足部にカウンターストレイン系の考え方を導入したとき、改めて人体の不思議さを実感できる。

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施術雑感(26) アンチ・エイジング 2006/3/4

アンチ・エイジング(抗老化)花盛りである。高齢化社会の到来と相まって、化粧品はいうに及ばず、サプリメント、エステ、美容外科、果ては清涼飲料水まで。これからのビジネスを読み解く一つのキーワードであるらしい。
人がいつまでも若くいたい、少しでも老化を防ぎたいという欲求があるのは自然なことだし、平和な社会の証拠でもあるから、ケチをつける何物もない。おおいに結構なことだ。これからもそのような産業が隆盛になることを願うにやぶさかではない。

アンチ・エイジングには方向性が3つほどあるようだ。一つは、容姿の若さを如何に保つかという分野。一つは、肉体の健康を如何に維持するかという分野。もう一つは、精神の若さを失わないようにするという分野である。
容姿を問題にする分野は主に、化粧品、エステ、究極的には美容外科ということになろうか。健康維持は、健康食品、健康器具やフィットネスクラブなどが該当するだろう。(勿論、我々のような業種も含まれる)
精神の若さを保つには、昔からある旅行なども含まれるし、より直接的にはカルチャー的な講座がある。社交ダンスなどは心の若返り産業とも言えるのかもしれない。

これらどれ一つとして興味がないという人は、珍しいだろう。大きな括りで言えば、随分前からある「健康産業」という分類に入ると思う。健康に関わる産業の市場規模は、全体で30兆円前後だと聞いたこともある。切り口をアンチ・エイジングということにすると、勿論、健康産業は全て含まれることになるし、今まで、それでは括れなかった分野も入ってくるので、もっと市場規模は膨らむに違いない。実に結構なことである。昔、日本も食べるのに精一杯で、容姿にこだわったり、いかに若く見せるかなどというのは、一部の特権階級のものだったことを考えると、成熟した国家になったものだと感慨深く思う人達が、特に年配者には多いのではないだろうか。

当院によく来るドクターの話によると、アンチ・エイジングというキーワードは膨大なビジネス資源になるため、野放しにすると玉石混交、虚実入り混じり状態になるため、ちゃんとした専門家の養成が急務だということらしい。それで医師を含めた抗加齢学会というものが発足し、活動範囲を広げているとのこと。肯ける話ではある。もともと、健康に関するビジネスはどこか胡散臭いものが多かった。かの有名なO教の指導者、A某は健康食品で摘発されたことがある(薬事法違反)。今でも時々、インチキ商品が摘発され、新聞を賑わすのは読者もご存知の通りであろう。中にはダイエット食品と称してネット販売され、死者さえ出したというものまである。これは究極の実害だろう。

また、今のエステ産業はそうでもないが、かつてこの業界はダメージ産業とさえ呼ばれたことがある。キャッチセールスと高額契約がセットになっていた時代で、若い人たちが支払い能力を超えるような契約をし、社会問題にまでなった。いつまでも若々しくいたい、美しくいたいというのは人の性でもある。ここにうまくつけこんだ悪徳商法は、排除していかねばならない。消費者自身が目を養うということでもあろう。

そうそう、男性は髪が薄くなるとかなり年齢より上に見られる。逆に黒々、フサフサの髪をしているだけで、年齢より若く見られる。そこで、さらに踏み込んで、年配者が茶髪に染めている人もいる。あれは逆効果ではないだろうか。髪だけみると若者だが、顔を見るとリッパなオジサンというパターンがあって、一瞬絶句することがある。茶髪に染めるのは若者だけの特権だと思っていたが、価値観が多様化しているのか、ちょっとついていけない。五十歳の人が三十歳に見せようとしても無理があるし、本人はそのつもりでも、他人は結構、違和感をもっている場合が多い。その人の年齢にふさわしい成熟さを持っていながら、はつらつとしていれば、リッパなアンチ・エイジングライフだと思うのだが・・
まあ、これには異論がある人もいるとは思うが・・

経験の中で、実年齢より年寄りに見える場合は、圧倒的に「疲れている」時だと思う。中年以降は特にそうだ。精気がなく、目に輝きもない―これではいくらエステ通いしたところで、高いサプリを飲んだところで、効果は知れているだろう。精神的な苦悩も、肉体的疲労も、全部顔に出る。人相観もあながち間違いとは言えないのではないか。施術したあと、明らかに人相が変ること度々である。

さて、我々の業界でアンチ・エイジングに貢献できる分野というのは、前述のように疲れを取ってあげて、元気にしてあげるということだが、もっと具体的に貢献できるように思う。「若さ」とは「柔らかさ」の異名であると述べたのは、誰であったか・・蓋し、至言である。私もある程度の年齢を重ねてきて切実に感じる。かなり意識を持って、柔軟な身体にすることを心がけなければ、確実に身体は堅くなる。施術していても痛感する問題だ。また、堅くなるとともに、背が縮む。そう、物理的に縮むのである。25歳のときに185センチの身長があっても、80歳にもなれば、170センチくらいになってしまう。生物学的には25歳位が人のピークだと言われている。それ以降は老化していくのみである。身体が堅くなり、背が縮んでいく(個人差はあるが)。ゆっくりと坂道を転がり続けるわけだ。

では、筋肉を柔らかくし、身長を伸ばしてあげることができればどうか?
まさにアンチ・エイジングではなかろうか。老化という定めに逆らうことはできないが、少なくとも、遅らせることができる。
我々、手技療法家にはそれができるのである。丹念に筋肉をほぐし、ツボを操作することによって、または特殊な整体的な操作を加えることによって、身長が伸びるのである。器機によるものと違い、人の手で行うので、無理がなく、効果も高い。
このような身長矯正が功を奏するのは、やはりある程度の年配者である。個人差があるので、何歳である、と断定することは出来ないが、40歳以降であれば、平均で1センチは伸びる。放っておけば縮む一方なので、その意義は大きいと思う。

もともと朝の身長と夜の身長は違う。5ミリから1センチくらいの違いはあろう。しかし、整体操作での身長の伸長は朝も夜も関係ない。どの時間帯で行おうと、伸びる。施術前、施術後、同じ身長計で計ってみれば一目瞭然である。

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施術雑感(27) 肩コリの原因 2006/3/24

肩コリの原因は大きく分けて五つ。原因が分かれば対処法が分かるので、知っておくに越した事はないと思う。
一つ目は腕のコリからくるもの。あまりピンと来ないと思うが、最近、増えている。腕と目はセットになっていて、大概の者は眼精疲労を伴っているのが特徴である。仕事、生活環境上、目を酷使するシーンが多いのが原因かも知れない(パソコンディスプレイ見続けるなど)。古典経絡では、眼病の特効ツボとして大腸経「曲池」が前腕部にあるとしているのはご承知かと思うが、目の特効穴が腕にあること自体、その関連性を如実に示している。かつて増永静人師が上肢に胆経を発見したとき、この「曲池」は大腸経ではなく、胆経上を通るということを確認している。そうなると、なるほど、胆経は目の支配系経絡であるから、さもありなんと納得できる。眼精疲労が腕に反映される場合もあるであろうし、腕の疲れが目を弱めることも考えられるので、臨床上、どちらが先かを探る必要性はない。拙い施術経験から言えば、慢性的なコリに悩まされている若い方は、裸眼が0.1ない場合が多いものだ。眼科医が肩コリのエキスパートになる時代が来るかもしれないと密かに思っているのだが、東洋医学を学び、肩コリに取り組む眼科医は、今のところあまりいない。しばらくは、我々の独壇場なのだろう。
さて、腕のコリを感じる一群の人達はいるにせよ、多数派ではあるまい。腕のコリよりも先に肩のコリを感じるのが普通である。だから、腕の施術は盲点になるわけだ。腕のコリを取らないと肩コリがサッパリ抜けないし、目の疲れも癒されないのに、手っ取り早く、クイック的に肩揉みだけでその場しのぎをしているOLさん達を時々見かける。これはかえって不経済なことだと思う。頻繁にクイック的肩揉みで誤魔化すよりも、付け足しではなく、しっかりと上肢を施術して貰って、肩の筋肉を弛めたほうが長持ちするわけだ。経済的にもこのほうが安上がりだと思うのだが、肩コリは肩を揉めば良いという一般的な考えから脱しきれていない。これは業者の責任だ。素人はそんなこと知らないのだから。
そもそも、大手チェーン店のオーナーは施術に通じているわけでもなく、というか施術に関しては素人に近い。ビジネス展開に施術的な知識はかえって邪魔になるのか・・

上肢の施術はちょっとしたコツがあって、ただ揉むだけではコリは取れない。ポイントをしっかり押圧するのは勿論だが、スジのツッパリを弛める必要がある。上肢を動かしながら施術すると、緩んでくるのが分かる。また、前頸部や上胸部を弛める必要もあるだろう。肩コリの基本手技といったところか。肩を揉むのは最後でいい。または全く揉むことなく、肩コリが取れる。さほど難しくはない型の肩コリである。仮にタイプTとしよう。

ということでタイプUは肩関節の前方変移がある型である。それがそのまま肩コリの原因となっているものだから、2つ目の原因を述べていることになる。これはちょいと厄介である。肩コリの基本手技だけでは、すぐにまたコッてしまう。やはり、前方変移矯正をしておかねばならない。体質なのか、生まれつきの骨格なのか、肩が前のほう突き出している一群の人達がいて、この人達がコリ性だと、相当なコリだと思ってよい。肩を揉んでも全く歯が立たないので、かなり強圧したり、強い揉みを加えて、揉み返しがきたりして、益々、板か鉄板のように硬くなっていく。気の毒の一言。早い時期に適切な手技を受ければ、それほど酷くならないのに・・と思うのだが、大概、このタイプの人達は散々押されたり、揉まれたりしているので、深層筋にまでコリが達していて、スッキリと抜けきらない。しかし、肩関節を前方へ引っ張っている胸筋群を緩め、上肢を緩め、軽い矯正をしていくと、段々と抜けていくものだ。さほどいじられていない身体なら、一回の施術でも抜けるが、瞑眩反応が強く出るきらいがある。加減が難しいところだ。それでも、まだ対処のしようがある良性に近い肩コリだと言えるだろう。

臨床的にいうと、タイプUはタイプTの型も持っていることが多い。つまり、混合型である。弛めるのに多少時間がかかるが、混合型であろうと、やることは同じという部分があるので、たじろぐ必要はない。

続いてタイプV。頚椎に変移があるタイプ。中部頚椎に変移を確認できるが、原因は上部頚椎(環椎、軸椎)の歪みから来ていることが多いものだ。そしてコリは下部頚椎(6番、7番)際近辺に溜まる。若しくは1番胸椎近辺に強くコリを感じる場合もある。ここはカウンター・ストレイン的な手技で矯正され、ほぐれていく。手技的には高度なものではないが、このような施術をする人は少ない。受療者の負担とリスクが少ない安全な方法なので、身につけてほしいところだ。頚椎の歪みを放っておくと、肩コリに留まらず、内臓に障害が出てしまう。初期の内なら、その内臓障害はコリをほぐし、矯正をかけるだけで、ケロッと治ってしまうのだが、本格的な機能障害に陥り、器質的な変異に及ぶと、実に厄介なことになる。こうなると、一部、医者の世話にならなければならないだろう。何でも早期発見、早期治療ということだ。
足の裏の汚れが万病の原因だと主張し、一大足揉みブームを作った人もいる(確かHP上のどこかに記述していると思うが)。最近は首こそ命の根本だと主張する施術家が増えてきた。どちらが正しいという問題ではなくて、それぞれ一面の真理を突いている。人それぞれ原因が違うわけで、その原因にピタリとあった人なら、その主張は正しいことになる。万病一元論は日本人の好むところではあるが、たった一つの原因だけで、説明することはできない。しかし、首の重要性を訴える施術家の言葉に素直に耳を傾けてみれば、肯けることは多い。横首には迷走神経がナニゲに何物にも保護されることなくスッと通っている。これだけでも、首の変移が身体に重大な影響を与える根拠になるだろう。

因みに頚椎の変移からくるコリは少し突っ張った感じのコリ感である(人によって感受性が違うので絶対的なものではないが)。また、下部頚椎近辺や後頭部の際を押してあげると、とても気持ちがいいという種類の人達でもある。触診的に頚椎の変移を認められなくとも、これらの兆候を示すならば、頚椎の変移があると診ても良い。いずれにしても初期のうちなら、コリをスーッと抜いてあげられるタイプではある。

続いてタイプW。タイプWは「胸椎」に変移がある型。この胸椎に変移があって、肩コリ様な症状を呈している者には本当に苦労する。まだ横に変移している人はいい。対処しやすい。しかし、前方脱出、つまり陥没的な歪みがある人には、かなり苦労させられるのだ。背部の素肌を直接見ることが出来るアロマ・マッサージ系の施術者なら、目視できるのでこのような一群の人達がいることが分かると思う。我々は着衣の上からだが、それでもはっきりと触診できる。そもそも、胸椎は後方に湾曲しているので陥没は起きづらいものだ。陥没は、前方へ湾曲している腰椎の専売特許みたいなところがあるにも関わらず、胸椎に起きるとは・・背骨と言えば、カイロプラクターの独壇場だが、熟練していないカイロ施術家はこの陥没を普通と診て、その前後の椎骨を後方脱出として診てしまう。そして、押し込もうとして悪化させる。これは腰椎にも言える。ハードカイロは診断が的確であれば、頓挫的に良くすることもあるが、リスクも高いのである。しかし、診断が的確であったとしても腰椎の陥没矯正ならいざしらず、胸椎の陥没を矯正する技法というのは実に難しい。事実上ないに等しい。やはり、自然治癒力、経絡の力を借りる他ないだろう。

さて、何故、起きないはずの胸椎に陥没が起きるのだろうか?
少し、考察してみたいと思う。経験則だが、そのような人達に高い確率で共通しているのは、過去に事故、若しくは強い肉体的ショックの経験者であるということだ。普通、起きないということは普通じゃない経験をしているということで、納得できる。局部的なショックでもその衝撃が背骨にまで伝わり、歪めてしまうわけだ。
しかし、それなら、何故素直に、後方へ歪まないのか・・これは、衝撃を受けた箇所やその受けたときの体勢や、個人の骨格によるものとしか言えないと思う。運が悪かったとしか・・である。現実としてそうなので、原因の追求をしても仕方がないが、人情として原因を追求したくなる。しかし、事故、肉体的ショック説はここまでの説明くらいしかできない。
次に内臓異常説。内臓が障害を受けると、その内臓に対応する椎骨が捻転する。一種の忌避システムとしてである。このことを阿久津政人氏(十字式健康法)は、神経の植物的性質によるものとした。さて、捻転した椎骨の椎間孔から出ている支配神経は、後方捻転された部分において引っ張られ短くなる。通常、内臓が元気になれば、この捻転は自然治癒力が働き、元に戻る。ところが、継続されると、捻転されたままだ。捻転されたままというのは片一方の神経が短くなったままということで、その神経支配が行き届かず、非常にまずい状態ということになる。そこでまた、生体の防衛反応が働き、椎骨自体が前方へ出てそれを代償する。ここに陥没的歪みが完成する。恐らくこの過程において、何らかのショックが身体を襲ったとき、歪みが固定するのだと思う。だから、稀なのであろう。したがって、ショックだけでも、内臓異常だけでも、この状態は起きづらく、両方の要因が重なったときに起きるものと予想されるわけだ。胃の調子がおかしい時に、スキーで転んだとか・・肝臓の機能が低下しているときに配偶者の浮気を知ったとか・・この場合、精神的ショックであっても、固定化の原因になると思われる。様々なシチュエーションが考えられるので、当人はすでに忘れてしまっていることが多いのではないか。

まあ、そんなこんなで、陥没が起きて(事実だからしょうがないですわね、原因仮説は間違いだとしても)、難治性の肩コリ様症状を現出させる。これは背後に内臓の歪みも絡んできているので、全身の経絡的施術が要求されものだ。このタイプで困るのは、全身的施術であっても抜けきらない時があるということである。つまり、肩が楽になっても、まるで代償作用的に他の部分がツマった感じを持ったりと、一回の施術の中で、モグラ叩きをしているような気分である。そのツマったような感じを受ける部分は特定できない。胸だったり、股関節であったり・・肩コリを訴えている人でなくとも、このような感じを受ける人達は、基本的に歪みが深い。だから、たかが肩コリと安易に施術すると痛い目に遭う・・こともあるということだ。

タイプX。このタイプは前述のような胸椎陥没変移までは起こしていないが、内臓障害によって起きる型である。特に婦人科系の機能が悪いと、直ちに肩甲背部の筋肉が硬くなるというのは、増永師が卵巣反応と呼んで、広く知られることになった。コリも放っておけば、いずれ内臓に障害が出るので、コリが先にあったのか、内臓障害が先にあってコリを呼んでいるのか、判別できないだろう。私は敢えて判別する必要はないと思う。何故なら、いずれの場合も歪み方は同じで深いからであり、施術方法も同じだからである。これも全身的な施術が要求される。腹証、足証はいうに及ばずである。婦人科系は足が良く効くので、足の施術は欠かせないだろう(大腿部の経絡も含めて)。まあ、こうなると、単なる肩コリ治療ではなくて、体内浄化プログラムということになる。まだ胸椎の陥没がないだけましかと思うが、内臓の歪みの段階は少なくとも七段階くらいはあるので、人によってはてこずる(七段階の根拠はさてなんでしょう?お分かりの方、ご一報を!抽選で一名の方、焼き鳥をおごってあげましょう)。

一段階目は内臓症状としては出ていなくとも潜在的な内臓の経絡的歪みがある状態である。この場合はまだ、歪みとしては浅いので、かなり楽になるし、内臓の調子も元に戻せる。歪みが浅いとは言っても、内臓的に浅いというだけで、そもそも、内臓にまでいくということは一般的には歪みが深いということであって、その辺は誤解なさらないで頂きたい。全身的な処置をして軽くなるということを言っているわけで、肩コリに特化した施術方法では埒が明かない。二段階目、三段階目くらいまでなら、なんとかなるが、四段階目あたりだと、もう医者の世話が必要だし、五段階目なら入院している。本当はそういうレベルの人はやりたくない、というのが本音である。自覚的な内臓障害として出る人はとっくに入院しているのだが、慢性的にゆっくり段階を経るタイプの人は我慢しているうちに、或いは名医に当たらないうちに、段階を重ね、手に負えなくなることもある。肩コリは未病の指標として、重要なものである所以だと思う。とにかく、段階の早いうちの処置が必要である。内臓まで至らない歪みの浅い人は、強くコリを感じたときだけ行きやすい路面店などでそれなりに満足してしまうわけだから、必然的に当院に来院する人々は、歪みの深い人ばかりになってしまう。もう少し歪みの深くない人が、ケアー的に来て頂きたいものだ(なんだか恨み節になってしまった)。

以上、増永静人師の知見に従って、自分なりの経験などを踏まえ、肩コリの原因について述べてみた。これらの分類は単独で当てはまるものではなく、実際は原因が重なっている場合が多い。本文で述べているようにタイプTとタイプUが混合されているとか・・である。全部の要因が重なっている場合もあるかも知れない。或いは三つのタイプの混合とか、四つのタイプの混合とか・・組み合わせは多数に上る。肩コリ一つとっても様々なバリエーションがあるのだが、その分だけ施術のやり方があるわけではない。まず、基本手技があって、それに付加する手技を加えるかどうか・・また、混合型の種類が違っても全く同じ手技の場合もある。要は基本手技のあり方の問題であって、無数の技法を身につけるということではない。手技について言及するのは、文章的性質に馴染まないので、これ以上は止めるが、少なくとも、肩コリの手技というのは肩を揉むことでもないし、肩を押すことでもないということである。

これ以外に特殊な例としては、虫歯からくるものとか、リンパ節切除によって起きるものとか、色々である。虫歯は歯医者さんに行かねばならないし、リンパ節切除は、対症療法的にならざるを得ない。我々が対応でき、かつ本質的な歪みを改善できるということに限定したタイプ別であるということをご承知置き願いたい。それとて、程度の問題で、タイプWやタイプXの深い歪みの方についてはお手上げ、ということもあり得るのである。楽になったという程度なら、どんなタイプの肩コリにも対応できるが、それが本質的改善に繋がっているかどうか、ということである。その範囲を広げるというのが手技法家に科せられた使命かと思う。

本文中述べていなかったが、どんなタイプの者でも頭蓋が閉じていると、実に改善しづらい。頭蓋へのアプローチも試みてみるべきだと思う。そういう意味でクイック的なマッサージは本質的改善から程遠いものである。今は環境上、クイック的な施療をやらざるを得ない施術家は、そうしたことを心に秘め、将来のために技術を練磨していって頂きたいと切に願う次第である。

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施術雑感(28) 共感原理 2006/4/25

今回は趣向をガラっと変えて、共感原理について述べてみたい。
施術を受けていると、特に体内浄化プログラムは、施術中落ちてしまう(寝てしまう)ことがある。疲れきっている状態で、人の手を当てられるわけだから、気持ち良くなって無理もないだろう。完全に寝入ってしまうと、起きたときは既に施術が終わっていて、なんだか損した気分になると思うが如何だろうか。かと言って、生理的に要求されている眠たいという本能を無理やり我慢するのも良くない。寝せるのが目的ではないということさえ頭に入れて置けば、あとはクライアントの自由意志(本能)に任せていいのではないだろうか。恐らく、大半の施術者はそうしているだろう。中には寝せるを嫌い、絶えずクライントに問い続ける流派もあるようだが。受ける側からすると(個人的にそうなのだが)、うざったくてしょうがない・・。

さて、施術を続けていると、クライアントは気持ち良くなって、リラックスしてくる。そのリラックスが進んでいくと、夢とうつつの狭間にいる状態が現われる。このとき、寝入って夢をみている状態と違うのは、現状の認識ができるというところにある。つまり、今、ここで施術を受けているという認識であり、周囲のことも認識できる状態である。この状態のことを催眠状態とか、半覚醒状態、そして変性意識状態というわけだ。その程度によって呼び方が違うに過ぎない。
この状態のときに、とても面白い状況が現出することが多い。意識下にある基本的な感情が呼び起こされ、涙が止まらなくなったりする(悲しいとか、怒りとかの感情を伴うわけではないが、とにかく涙が出て来るという不思議な感情)。一種のカタルシス(浄化作用)だと思う。このような感情の浄化がときとして起きるので、そういうものを含めて体内浄化プログラム施術というわけだ。不思議なことはこれに留まらず、多いのは、目を閉じているにも関わらず、視界がある色に染まるということである。ある人は紫色であったり、ある人はピンク色であったり・・と。この解釈は微妙だ。若しかしたら、施術を受けているとき、第三の目が開いて施術者のオーラを見ているのかも知れない。先生が近づくと、紫色が視界一杯に広がると指摘したご婦人もいらした(二人いた)。またうちのスタッフは、施術モデルになったとき、生徒さんによって、違う色に見えるという。未知の能力(或いは失われた能力)が施術中の変性意識と相まって顕現されたものなのだろうか。はたまた、意識下の感情がその時々、色という形で表出してくるものなのだろうか。いずれにしても、この現象はかなりの高い確率であり得るのである。

これは施術を受ける側が感じるというものである。では、施術する側はどうなのか。基本的に圧反射は単純推圧によって副交感性のものとなる。この時、施術者が充分リラックスしていて、しかも力を使わず、筋トーヌス状態で押圧出来たとき、その圧反射はクライアントのみならず、施術自身にも起きる。その圧反射はクライアントと同じように副交感性のものである。副交感性反射は大脳新皮質を経由せず、ダイレクトに感情、本能を司る辺縁系に伝わる(増永師より)。ということは、単純推圧によって共感原理が働いたとき、クライアントとの共感が起きるので、施術者が見えた色というのはクライアントの持つ色ということになる。証診断原理のオーラバージョンというところか。増永師が発見した証診断原理からいうと、自分の意識下ではなくて、どうも相手のものを認識している可能性が高い。まあそれにしても、証診断原理は様々なことに応用が利くものだ。そのうちオーラソーマ・リフレクソロジーなんてものが出てくるかも知れない。共感原理を利用すれば、可能だろう。もともと、経絡を認識するために証診断が生まれたのであるが、経絡証診断はそもそも経絡の走行、反応点が頭に入っていなければならない。そこいくと、オーラ証診断は色そのものが見えるわけだら、知識も要らず、ダイレクトに分かるので、ここから訓練していくのも面白いかもしれない。特に女性は香りに敏感であると同時に色にも敏感である(色弱や色盲が女性には極端に少ないという)。男性よりもはるかに修得が早いものと思われる。

さらに面白いのは、フラッシュバック様な映像が浮かぶということだ。自分の人生とはまるで無関係なシーンや人物が瞼に浮かんでくるというもの。船員の姿がなんの脈絡もなく浮かんできたり、ジプシーの老婆が浮かんできたりである。正当心理学では、これも無意識の働きとするわけだが、かのブライアン・ワイス博士は「SHIATU」を受けているとき、突如、自分の前世を鮮やかに思い出したという記述を読んだことがあって、超心理学的にはそのような説明も成り立つのかも知れない。そこら辺は思想、信条が絡んでくるので、何とも断言する材料がない。しかし、どのような理由にせよ、そのような現象は現実としてあり、しかも、それで癒されるということである。
いや〜、施術はまことに面白い。

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施術雑感(29) 上達の早道 2006/9/14

私が生まれ育ったオホーツク海沿岸部は、今も自然が豊かで、田舎らしい田舎である。電車などないし(汽車である)、最近は合理化のため、本線以外の支線は撤去されている。なんと鉄道がない!・・・(私の故郷は本線が通るのでちゃんとあるけど)。そんなところにいると、何故か、時間さえゆっくりと流れているような錯覚に陥る。
とりたてて、何が盛んとか、何が強いという土地柄ではないが、カーリングで常呂町が注目され、常呂生まれではないが、近所という感覚で、少し気分がいい(北海道の感覚で近所というだけで、東京的感覚ではかなり距離があるにも関わらず)。
そんな程度なので、お国自慢がしづらいところだ。
しかし、かなりマニアな世界では多少有名な土地ではある。

幻の古武道と言われている「大東流・合気柔術」が実に盛んだった土地柄なのである。合気柔術の事実上の創始者と言ってもよい武田惣角師は長くこの付近を活動拠点とされていた。北海道に新天地を求めて入植していた若き植芝盛平師(合気道の創始者)と出会ったところでもある(そこは私が通っていた高校もあるぞ)。
そもそも北海道自体が歴史が浅いのだが、合気系にとってはエルサレムみたいなものだろうと、勝手に思っている次第。そのようなことを後年知ったのだが、それで、数々の疑問が解けた。幼いころ、隣のメガネ屋のおじいさんが町の男達を集めて、なにやら怪しい技をかけあっていた。おそろしく背が低く、ヨボヨボに近いおじいさんが屈強な男共を手もなくあしらっていたのである。窓から覗き見して、なんでわざと負けるのかな、おじいさんだから、気を使っているのかな、などと子供心に思ったものである。実はこれぞ、幻の秘技・合気柔術だったわけで、そのおじいさん、武田惣角師に直接学んだらしい。というのは「タケダナントカ先生」という言葉を覚えているからである。自分と同じ苗字なので、その部分だけ鮮明に覚えている。曰くタケダナントカ先生は自分より百倍は強い。曰くタケダナントカ先生に触られただけで動けなくなる。曰く・・・etc。こうして町の男衆は技の研究に余念がなかったのである。別に道場があるわけでもなく、普通の民家の居間でごちゃごちゃとやっていたのであるが、後に「広い道場から達人は生まれない」という格言があるのを知って、そういうことか・・・と納得した(というわけでもなく、単に道場がなかっただけだろう)。
それにしても、合気柔術は修得が実に困難である。もともとは剣の理合いから生まれたもので、真剣での経験がなく修得しようと思うと困難を極めてしまう。むしろ、剣の経験がない植芝盛平師が創始した合気道のほうが入りやすいし、修得しやすいものと思う。事実、現在、故郷近郊では合気柔術は陰を潜め、合気道のほうが一般的である。勿論、全国的にもそうだろう。いくら努力してもさっぱり上達しなければ、人間、やる気を失ってしまうものだ。幻の秘技たる所以だろう。

しかし、ごく少数とは言え、武田惣角師以来、連綿と技を受け継いできている達人もいる。現在、生存している方達はいくら高齢でも武田惣角師に直接教えを受けたわけではないだろう。40年も昔、直接指導を受けたメガネ屋のおじいさんは文字通りおじいさんで、生きていれば110歳くらいになろうか。技の断絶がなく、受け継いでいるということ自体驚異とさえ思うほど、高度な技術だと思うが、修得するに一つだけ秘訣があるという。

それは達人の技を受け続けることだという。ただ、ひたすら受け続けること。その一言に尽きると。合気柔術くらい高度な技になると大脳的理解は受けつけない。多少の練習など、無意味と思えるほど神秘的である。それだと、修得しようがないではないか・・と思うのだが、よくしたもので人間というのは小脳的理解の仕方というものがある。身体に刷り込ませる、というやり方。自転車に乗る練習の高度なものだと思えば分かりやすいかもしれない。自転車よりは余程高度だが、それでも技を受け続けていると、技の絶妙的間合い、神秘的なタイミングが身体で理解されてくるそうな。

技をかける練習をするのではなく、技を受け続ける。しかも、達人にである。こういう環境にあって、かつそういう意志を持った者で、さらに才能がある人間だけが、合気柔術の継承者になっていったのだろう。これのどれ一つ欠けても無理かと思う次第である。してみると、めがね屋のおじいさんは稀な人であったに違いない。

そうすると、ある程度のレベルにある施術者は上級者の施術を受けることが、上達の早道であることが分かるだろう。合気柔術に限らず、体術の基本だと思うからである。別に達人である必要はないが、少なくとも自分より経験もあり技量も上だと思う施術者の施術を受けることだ。そんな者はいないと思う方は目線を変えて他流派でも良いだろう。それなりに評判をとっている諸先生方は間合いが絶妙であるはずだ。決して、下手な者の施術を継続して受けてはいけない。下手な間合いが身体にインプットされてしまう。クライアントとしてなら、どんな施術でも身体が楽になりさえすればいいが、施術者として技を磨くという目的はまた別なのである。

それなりに大きなスクールの欠点はその教えを受けた先生の施術を受ける機会がない、ということだ。そこの校長が世界的なヒーラーであるとか、世界的権威であると宣伝するのは一向に構わないが、そうであればあるほど、施術の世界から遠ざかり、感とタイミングが鈍ってくるはずだ。そうではないから達人だ!というのは間違いで、達人であればあるほど、精妙さがあるはず。一日でさえ空白があれば間違いなく感が鈍るのである。自分を達人というつもりはないので、一日とは言わないが、その私でさえ、3日、空白があれば確実に施術感が鈍っていることが分かる。ほぼ2年、施術から遠ざかっていたことがあるが、感を取り戻すのに同じ期間くらいかかった。そのくらい微妙なものである。さらに今現在、微妙な修正を加えている。ゴールはない世界なので、引退するまで微妙な修正を加え続けるだろう。

ある人を師とし、その人と同じような施術をしたいと思っても同じにはできない。あるレベル以上になると、むしろできないことのほうが重要である。そこから先は個性というものが出る。個性の違いは埋没させるものではなく、ある時期からは前面に出すものであろう。芸能の世界ではその人独自の芸風と呼ぶ。古今亭志ん生と桂春団治ではまるで芸風が違うが両方とも名人である。カラヤンの五番「運命」とフルトヴェングラーの「運命」も違う。しかし、両者とも巨匠と納得させるものを感じさせる。極端な話、ブーニンとフジコ・ヘミングウエイのチャイコフスキーではこれが同じ曲か!と思うくらいの違いがあるが、双方とも天才ピアニストであることに変りはないのである。絵画でも音楽でも芸能でも最後はいかに自分の個性を出すかということに注力するわけだ。ゴッホとモディリアーニの価値の違いは鑑賞者の好みの違いでしかなく、どっちが高いかということではない。最初は模倣から入るが、最後は個性に終わる。終わりなき追及の果てに。

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施術雑感(30) バナナ酢 2006/9/14

しばらく本を読むのに時間を取られ、書くという作業をサボっていたので、少しづつ溜めていた原稿を一挙に公開することにした。とはいうものの、随分前に書いた原稿は、自分の中では新鮮味がなく、読み返してもつまらないものである。そこで、新しい原稿を今書いている最中なのだが、どのような内容にしようか迷ってしまった。文字による情報伝達は達意の文章家でさえ、難しいものである。まして私などが意を尽くせるなどとは考えていないが、最近の出来事をエッセイ風にまとめてみようと思う。秀逸な名文にならないことだけは保証しよう。

さて、ある女性クライアントが来院された。その方、熱心にバナナ酢の効用を説いておられた。バナナ酢?浅学のため初めて聞く「酢」の名前である。よく聞いてみると、これは自分で作るらしい。作り方は簡単で、とにかく「酢」を用意する(これはなんでもいいらしい、私はリンゴ酢を薦められた)。それと黒砂糖、そしてバナナである。
要するに黒砂糖と2センチ程の長さに切ったバナナを酢に漬け込むというだけのものである。簡単といえばこれほど簡単なものはない。漬けておいて放っておけば、勝ってに熟成が進み、まろやかなバナナ酢の出来上がりということになる。このとき、熟成を早めたい場合、電子レンジで一分ほど加熱すれば、24時間後には飲用に耐えられるほど、熟成が進むとのことだ。勿論、電子レンジが嫌いな方は、時間をかけて熟成させればよい。この場合は24時間でというわけにもいかず、一週間は必要であろう。私は気が短いので、問題が取り沙汰されているが、文明の利器を利用することにした。つまり電子レンジをである。健康志向の方は徹底される場合があって、レンジの使用を絶対認めないケースもあるらしい。私はそういうものに関してはほとんど無頓着なので、そこまではこだわらない。

分量や材料の比率に関しては、ネット検索で「バナナ酢」を入力すれば、すぐに出てくるはず。幾通りかのレシピがあるが、これは好みの問題であろう。
そうこうしているうちに出来上がった。
(と書くとあたかも自分1人で作ったかのように思われるだろうが、実はうちのスタッフが全部作った。私は見てただけ。そして待っただけである)

もともと、私は手技バカで健康食品とか補助食品には興味がないのである。昔、昔、健康食品ブームみたいなものがあって、販売方式はマルチ的で法外な価格であったり、簡単に作られるという名目のもの(例えば、紅茶きのこ)があっという間にブームになって、あっという間にブームが去っていくのを何度も見てきた。一部マスコミはこれでもかというくらい、身体にいいもの特集を組んだりしている。ある意味、私の年代はそのようなトラウマがあるわけだ。だから、そのようなトラウマがない若い世代のほうがこのような流行には敏感かと思う。(事実、このバナナ酢を薦めてくれた方はうら若き女性であった)

それでも、興味を抱いたのはまず、それほど費用がかからないということ(今どき、バナナなんて安いですものね)。それと酢の効用である。クエン酸回路の確立により、疲労物質が除去されることはすでに証明されているところである。
また、新潟大学の安保教授は面白い見解を述べていた。曰く「酢は基本的に毒である」と。ここだけ読むとかなり刺激的な否定的見解に思われるかも知れないが、そのココロは少量の毒を身体にいれると、それを排除しようとする身体のシステムが働き、そのとき身体に溜まっていた毒も一緒に排泄されるということだ。つまり身体の清浄化を行うものとして有効な方法であるということ。だから、基本的に毒が溜まっていない「子供は酢が嫌い」であると・・・思いあたる節がある。私も酢が大嫌いであった。そして、毒が溜まっているであろう中年、つまりこの歳になっても嫌いなままなのである。身体に毒が溜まっていないとは考えられないライフスタイル、年齢にも関わらず、である。多分、味覚は子供まま大人になってしまったのであろう。辛いものも子供ときと同じで苦手である。カレーは未だにハウスバーモントカレー甘口が一番好きだし、焼き鳥に唐辛子をバンバンかけて食べる人を信じられない思いで見ている。苦いのもダメで、コーヒーはまず飲めない。酒も皆と一緒だといくらでも飲めるが、晩酌などとんでもなく、よくこんな不味いものを一人で飲めるな、という感覚である。
インナーチャイルドが味覚に具現化された象徴的な存在なのかもしれない。ようするに大人になりきれない子供というわけだ。世のほとんどの男性が多少なりともそういう部分はあると思うが、私の場合、味覚に端的に現われているような気がする(心理学的には興味のある問題だ)

ともあれ、作ってはみたものの(作っては頂いたものの)、酸っぱい!とにかく苦手な味である。レシピではミルクで割るのも良し・・・ということだったので牛乳で割ってみた。ヨーグルトの味がするが、やはり酸っぱすぎる。ならば、ミネラルウォーターはどうか。レシピでは5〜6倍の希釈と書いてあったが、思い切って10倍以上にしてみた。
なんと美味いではないか!ノスタルジーを感じさせるような甘酸っぱさと、ほのかなバナナの香り・・・これはいける!というわけで、この一文もバナナ酢を飲みながら書いている。
熟成も進みマロヤカ度も増していて飲み頃である。もう残り少ない。また作って貰おう。
(簡単だったら自分で作れって?分かりました、自分で作りますよ)

さて、その効用の実感であるが、間違いなく言えるのは便通が良くなったということ。もともと便通は悪いほうではないが、それでもはっきり分かるくらいよく出る(食前の方、失礼)。疲労回復のほうは疲労物質を測定していたわけではないが、心持ち回復力が増しているような気がする。空腹感も抑えられる(なるほどバナナ酢ダイエットというわけだ)。
その他、垢が出やすい・・代謝が促進されたせいか。
まだ、始めたばかりで、効用について云々するのは僭越だと思うが、リーズナブルだというのがいい。特に私の場合、希釈率が高いので、結構持つ。多分、平均すると二週間に千円以内の出費で済むはず。その分、食費が節約できるから、相殺されて費用はかからず、ということか。効果があるものでも費用がかかり過ぎるものは長続きしないし、手間のかかり過ぎるものも長続きしない。また、新しい成分のものも、あとで新しい学説で否定され、かえって不健康だということにもなりかねない。その点、完全食品たるバナナと昔ながらの酢の組み合わせは問題ないように思われる。

ちなみに漬けたバナナは食べてもいいということだが、酸っぱすぎて私は食べられない。まあ、抽出成分で我慢しておこう。
(この原稿を書き上げた後、知ったのであるが、熟成が進むとバナナも酸っぱさが取れ、甘酸っぱくて美味しい味になるようだ)

典型的な酢苦手タイプの私でも実践できるのだから、手軽なデトックスとして試されたら如何だろうか。

今、思いついたのだが、このバナナ酢を卵焼きの隠し味にしたらどうか?ちょうど冷蔵庫に卵が入っているので原稿書きを中断して作ってみよう。

作って試食後
塩、コショウ、そしてバナナ酢。これだけで味付け。
焼き方はオムレツではなく、こてこての卵焼き(つまりウエルダン)。
う〜ん、なんと言おうか・・「中華的トロピカル様和風卵焼き」になってしまった。
ケミカルな後味がしなくてかえっていいかも。
勇気のある方、作ってみてください(クレームは受け付けません)。

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施術雑感(31) 問題の所在 2006/10/7

前回は施術雑感というよりも、単なる身辺日記になってしまった。施術のことは一つも出てこないわけで、施術雑感のカテゴリーには入らないだろうと思う。そこで今回はコテコテの施術に関する雑感を書きたい。
表題にあるように「問題の所在」ということだ。「問題の所在」というキーワードは施術においては最も重要で、かつ生涯をかけて追求していくテーマでもある。

何度かこのHPでも言及しているかと思うが、施術において技法は目的ではない。手段である。何が目的なのかはいうまでもなく、クライアントの健康度の改善であり、促進である。そのための手段として技法あるわけだ。当たり前といえば当り前のことなのだが、基本的に誤りを犯している施術家の卵達がいるので、この際、はっきりと肝に銘じて頂きたい思いがあって、この拙文を書いている次第である。
健康度を改善、若しくは促進するには、まずその人の問題の所在を掴まねばならない。何故、そのような訴に至っているのか。どこにその人の問題が潜んでいるのか。これを探り決定するということが何よりまして重要なことなのである。それを追求していくことこそが、自然療法家たる施術家のレベルを上げるということに他ならない。

そしてそれは経験と不断の研究から生まれてくるもので、器用、不器用はほとんど関係ない。ただ経験を積めば良いというものでもなく、ただ書物を読み漁れば良いというものでもない。両方が両輪のようにうまく噛みあって、はじめて自分なりの見解を得られるようになる。

一例をあげてみたい。かのアンドルー・ワイル博士の著作に出てくる話である。ある若い女性が疲れやすく、無気力でどうにもこうにもならないという状況に陥った。当然ながら西洋医学的な検査を一通り行ったが、どこにも異常がないという。次にはこれまた当然の如くに代替医療を渡り歩いた。ホメオパシー、漢方、鍼、オステオパシー・・・etc。しかし、改善はみられなかった。そこでワイル博士はそれらの経過を聞きながら、経験と直感によって、この人は甲状腺に問題があるのではないかと思ったという。西洋医学での検査では甲状腺に異常が認められていないにもかかわらず、である。しかし、ワイル博士は経験で、特に若い女性には甲状腺の検査数値など当てにならないということを知っていたのである。そして、博士はその女性には未だ誰も出したことがない処方を書いた。即ち、甲状腺ホルモンを促進させる薬の処方である。これにより、その女性は長年の苦しみから直ちに救われた。今までの症状がウソのように消え、元気を取り戻したとのことだ。

ワイル博士は手技療法家ではないので、手技という手段をとらなかった(とれなかった)。
が、しかし、問題の所在を掴まえるということはどういうことかを象徴的に表わしているエピソードである。問題の所在を掴まえるということはどのような立場であれ、人を癒す仕事に就く者には絶対に必要なことなのである。

何故、ワイル博士の経験談を持ち出したかというと、実はこのような「甲状腺チョット異常」という症例が意外に多いからでもある。検査数値的に問題なくとも、明らかに甲状腺のホルモンの乱れからきていると判断できる一群の人たち(特に女性に多い)がいるということを、これをキッカケに知って頂ければと思う。また、甲状腺の異常には足が良く効く(施術百話にも載せているが)。反射区的にも経絡的にもである。経絡的には胃経が支配経絡の一つである。足心部への深い押圧や胃経へのアプローチなどで、ノドのあたりがむず痒くなったり、一瞬、咳が出たりすれば、十中八九、甲状腺に問題があると診て間違いない(男性はその確率が低いが)。このような見解は10年ほど前に読んだ、まさに今例に出したワイル博士の著作に啓発され、注意深く観察した結果、もたらされたものである。だから、本も読まねばならない。しかし、読んだからといって、そのまま放っておけば忘れてしまう。検証していくということが大事なのである。

リフレクソロジストはほとんどの臓器の反射区をまんべんなく刺激するので、問題の所在など分からなくとも良いのではないか?という意見もあろう。答えはノー!ノー!オー・ノー!である。そこが問題の所在であると認識して行う手技と、基本として行う手技では雲泥の差が出る。これは東洋医学の「証」をとるという概念にも繋がるのだが、問題の所在としてそこを施術するという行為自体に「証」をとる行為が含まれる。そして、「証」をとる行為というのはそこが問題の所在であって、そこをどうにかすれば治るという確信、思いが含まっている。それがあるから、改善の方向へと向かうのである。つまり、「証」とは確信に導かれてこその「証」なのである。勿論、意図せず、かってに治る場合もあろうが、守備範囲は狭くなる。「証」をとるというのは何も特別なことではない。経絡が見えるということも特別なことではない。そこに問題があると確信したとき浮かび上がる実相なのである。
述べてきたことから分かるように、「証」をとるいうのは別に東洋的な経絡でなくとも構わないのである。それは反射区でもいいし、関節系の拘束と捉えても構わない。或いは、瞬時に使い分けてもいいだろう。

増永静人先生は、二経の虚実を「証」をとる基本とされた。フルフォード博士は、筋・筋膜・靭帯・骨格・関節のエネルギーブロック(拘束)、そして頭蓋、仙尾骨の動きを「証」の基本とされた。いずれも「証」を捉えていることに変りはない。つまり、問題の所在を掴もうとされたのである。言葉の違いにしか過ぎないし、体系が異なるので捉え方が違うに過ぎない。しかし、やろうとしたことは同じである。繰り返すが、その人の問題の所在を掴もうとしたのである。

リフレクソロジーに話を戻してみたいが、個人的には反射区というものをここ最近使わなくなっている。理由は種々あって、それはこのHP全体に書かれていることを忖度して頂ければお分かりかと思う。しかし、まずリフレから手技法に入る方も多く、今なおリフレ的な反射区をもとに施術されている方もいるはずである。その方達にあるアドバイスをしたい。リフレでも「証」はとれると述べた。ある程度のベテランになると、足を診た瞬間にどこに問題があるか、感が働いて分かるという方もいるだろう。感の鋭い方はそういう診方が自然と身につくわけだが、それほど感が鋭くない人はどうだろうか?男は女よりも感が鋭くないわけだし、しかしよくしたもので、思い込みというリスクは避けられる。
今、様々なレベル、様々な立場に立っているリフレクソロジスト達、それぞれ技量や経験は違うかもしれないが、一つだけ、共通して勉強して頂きたいことがある。それは身体の仕組みを覚えるということ。その身体の仕組みというのは、解剖、生理学だけでは足りない。むしろ、医師の国家試験を受けるわけでも、解剖学者になるわけでもないわけだから、精密な解剖知識や生理学知識は不要である。もっと重要なのは、現在知られている以上に身体は一つで全体であるという仕組みを知って頂きたいのである。例えば、足首の捻挫が首の筋肉の異常を招くとともに、心臓へいく神経を圧迫し、心臓の症状と現われるかもしれないということや、小腸の機能低下が腰痛の原因かもしれないということや、腎臓の検査数値は何ら異常ではないのに、3分の1の能力を失い、かつそれが原因で血圧を押し上げているかもしれないということや、頚椎の異常が三叉神経痛を誘発しているかもしれないということや・・・etc。キリがないように思えるが無限ではないし、ある法則を知れば容易に類推することができるものである。そうすると、反射区の診方がまるで変ってくるだろう。そして感も働きやすくなってくる。

リフレ的な診方だけでは物足りないとか・・それ以上のことを求めるのは自由であるし、また違う診方も存在する。仮に違う方法や診方をとるにせよ、身体が全体で一つという診方だけはどの方法論でも役に立つ。役に立つというより、必須のものであろう。

特別な場合を除き、歪みともいうべきその人の問題の所在は表から裏へと移行していく。筋・筋膜上の問題はやがて関節の問題、内臓の問題へと移行していくのである。だから、経絡には内臓の名前が付けられた。また、臓腑には感情がそれぞれ配当されているように、心と身体はほとんど一体である。また別な側面からいうと、感情の鬱屈は胸骨の動きを物理的に阻害する。胸骨の動きが阻害されれば胸腺由来の免疫系機能が低下する。おまけに胸骨から出ているリンパ管が詰まり、リンパ流のヨドミを生み出す。その上、呼吸が浅くなるので、身体が酸欠状態になる。これで病気にならないほうがおかしい。感情を抑えて溜め込むというのはいかほど身体に害を及ぼすか。なんとなくではなく、はっきりと理解し、説明できるようにしなければならないわけだ。

身体の全体性や心と身体の密接な結びつき、そして現象として現われる個別性。このようなことを理解することなしに、問題の所在は掴めない(超能力的な感の鋭さを持つ人は別にして)。問題の所在を掴めない人のことを普通は施術者とも療法家とも呼ばない。なんと呼べばいいのか。作業者か・・・

問題の所在を掴む=「証」と考えていいのだが、その「証」を得るために大変な努力をするわけだ。まさに施術家としての努力のうち80%以上は占めるだろう。肩コリ一つとっても、単なる症状として見過ごしてはいけないと思う。その肩コリはどこから来ているのか。内臓的な問題を抱えているのか、ホルモンバランスの問題なのか、肩関節の拘束なのか、そもそも、身体が歪んでいる故なのか、その身体の歪みは元を質せば、どこに原因があるのか。もしかしたら、臀部の筋肉かもしれない(小さい頃おしりに皮下注射を頻繁に打っていた可能性もある)。このように問題の所在を探るのである。証をとるということは実に手間がかかり、努力を要するものなのである。この過程を省略して、直感など働くわけがない。

よく見聞きする話だが、施術者の中で、次々に違う療法を学びたがる者がいる。個人の自由なので文句をつける筋合いのものではないことは承知の上で言いたい。その技術を身に付けたいのだけなのか、その療法の持つ身体の診方(つまり証のとりかた)を身に付けたいのか。前者であれば、一生たいしたものにはならない。なんでもできるが何も出来ない施術者、つまり作業者になるのが落ちであろう。後者なら、様々な角度から証がとれるようになるであろうし、技術も早くマスターできるはずである。是非、ご一考願いたい。

さて、問題の所在を自分なりに掴まえたとしよう。
次はその問題点の解消である。つまり技術の問題だ。どのような技術を使えば、その問題が解消し得るのか。これは様々な療法が巷に溢れているので、絶対にこれが正しいということはできない。ある者の問題にはカイロ的な技術が役立つかも知れぬし、ある者にはリフレ的なアプローチのほうがいいかもしれない。絶対に効くという療法もないのと同じで、絶対効かないという療法もない。実はそれが真実である。そんなこと言っていたら、世の中にある全ての手技技術をマスターしなければいけないじゃないか!という反論もあろう。そう、そのとおりで、物理的に無理である。やはり自分のよって立つところの基本技術をしっかりと身につけ、それに知識の向上とともに付加していくより他ないだろうと思う。私はリフレ出身の施術者だが、リフレだけではどうしても問題が解決しない例に何度も直面して整体をやるようになった(解決しないというか解決が遅いということ)。また、リフレから離れ、足証療法も考えた。このように問題意識を持って取り組めば、自ずと付加されてくると思う。クラニアルしかり、セイクラルしかりである。繰り返しになるが、技法を学んだのではなく、身体の診方を学んだのである。技法は何度もやっていればバカでも上手くなる。(バカな私がいうのだから間違いない)

例えばこういうことである。
反射区的に頭部に問題が診て取れたとしよう。経絡的に診ると三焦経に歪みがあるとして、この二つから脳膜に問題の所在があると判断できる。そうすると、その時点での選択肢は一つである。反射区的には頭部を重点とし、経絡的には三焦経を重点とするということ。しかし、脳膜の自律的な動きが減少し、クラニアル・リズミックインパルスが減衰するという概念を知ったらどうであろうか。その人の問題の本当の所在は頭蓋の微細運動の阻害と捉えられるだろう。そう捉えたならば、頭蓋の動きをよくする技法を選んだほうが合理的である。そう、合理的なのである。このようにして、技法は付加されていく。技法は概念とともに積み増しされていくのである。

手技で何を最初にやればいいのか。何を基本技術にすれば良いのか、という問題。
私は押圧だと思う。つまり単純推圧である。単純推圧は全く技巧的な技術ではない。手当ての延長線上にあるものだからである。部位が的確で適正な刺激量であれば手技で治るもののうち、70%はカバーできると思う次第。
たった一日でマスターできるが、10年経ってもマスターできないものでもある。実に奥深さがある。押圧に関してはまた項を改めて述べてみたい。

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施術雑感(31) 押圧 2006/11/4

前回、項を改めて押圧について述べたいと記した。忘れないうちに述べておこう。
さて、押圧。単純推圧が見直された歴史的な背景があるようだ。私もまた聞きの類にはいるので恐縮するが、増永師の知見に従ってご紹介したい。
もともと、按摩というものが、盲人専業になった時代、つまり江戸時代に按摩自体の変質が始ったようだ。所謂、曲技曲手と言われる速いリズムと技巧的な手の使い方になったとのこと。やがてこの手の使い方は西洋マッサージ的でもあったので、明治以降、それらと混合され、ほとんど区別がつかなくなったとのこと。しかし、法制上は、按摩とマッサージは別のものとしてたて分けられている。今、業者に按摩だけを頼むといって、昔ながらの按摩を所望しても、多分マッサージ的技法が入っていて、純粋な按摩を受ける機会はないだろう。たまに極たまにクライアントがいうには、ホテルでマッサージを頼んだら、「オサスリ」だったよ、という方もいらっしゃる。であるから、絶滅しているわけではなく、それなりに使い手もいるのだろう。クライアントが「オサスリ」と表現している如く、近代按摩は表面的な筋肉を早いタイミングで、言ってみれば超絶技巧的な手の動かし方で揉む。何故、そうなったかはニ説あって、一つは盲人専業であるが故に「探る手」がそのまま技法になったということ。もう一つはギルド的職能組織の中で、モグリを区別するためとも言われている。日本人は器用であるから、見よう見まねで人の身体を揉む者も現われた。それらの者と明らかに一線を画したいという意図があったということである。いくら器用でも超絶技巧的な「手」が要求されれば明らかに触られた感触が違うと分かる。現代風にいうならば、プロとアマの区別のようなものか。
しかし、江戸中期頃からすでにこのような治病効果とは全く関係ないところで技法を磨いても意味がないと主張する者が現われた。「按腹図解」を表わした太田晋斉という人である。
彼は自分自身奇病に取り憑かれ、色々な治療法を試みたが、効果がなかったという。それで、単純な推圧を腹部に施したところ著効を得たそうである。そのような経緯もあって、あの有名な名言が生まれるのである。現代語訳にすると「曲技曲手を捨て、女、子供でもできる単純推圧に還れ」。還れということは、本質がズレていって、本来は単純推圧であったところの按摩、つまり古方の按摩はそういう姿であったと暗示しているわけだ。しかし、時代が時代であるから、一部でしかその影響は見られなかった。さらに時代が下り、幕府の統制下にない政府が誕生した。明治維新である。明治維新によって漢方が医療として認めらなくなった代わりに、医師不足の故もあって民間療法が根強く残っていったわけだ。その民間療法の中には当然、手技も含まる。このときに相当、太田晋斉の按腹図解が影響を与え、一部の治療家は従来(江戸時代に確立した近代按摩)の按摩を否定し、単純推圧を多用するようになった。さらに大正時代には、「指圧」という言葉も生み出され、紆余曲折はあるにせよ、昭和に入り、波越徳次郎氏のタレント性とハリウッドの大スターとの逸話、伝説で一気にメジャーなものになったわけである。

単純推圧を用いる「指圧」は法制上、民間療法から出発している。その実体は古方按摩であろう。治療術であるという自負もあり、按摩やマッサージが国家資格であるのに、指圧は民間資格という不合理に憤り、指圧関係者が国家資格に昇格させるべく、奔走したそうだ。それが功を奏し、昭和20年代の後半くらいには、按摩、マッサージに続いて、指圧もまた国家資格になった。本来、手技の本流であると自負している指圧家はこれでもまだ足らず、さらに指圧は指圧で独立した資格にすべきという運動も起したが、さすがに同業の反発もあり不発に終わったようである。

しかし、昭和35年にこれら業者が、仰天する事件が起こった。当時はその影響や重要性に本当の意味で気づいていたかどうかは分からない。しかし、現在のリフレ、アロママッサージ、エステ、整体の隆盛はこの事件から始っているのである。
その事件とは、最高裁の判決である。手技を法律で取り締まることは、職業選択を保証した憲法に違反するという内容のものだ。字句どおり解釈すれば、指圧、按摩、マッサージによって、手技を取り締まることは出来ない、自由にやりなさい、ということになる。日本国の最高法規たる憲法に違反するような法律は無効であるからである。ご承知のとおり、指圧、按摩、マッサージに関する法律は未だ存続している。しかし、意味合いが昭和35年を境にまるで変わったのである。なんと例えればよいのか・・・その判決以前では業務独占権が与えられていたものが判決以降、名称独占権のみになってしまったようなものだろう。
普通、国家資格は業務を独占できるが故に価値がある。医師しかり、弁護士しかりである。税理士も司法書士もそうだ。これらが職業選択の自由という憲法上の保証があるのにもかかわらず、個別の法律によって、シバリがかけられているのは、国民の生命、財産を直接的に脅かす可能性があるからである(ある水準に達していないと)。だから、法によって資格を与え、具体的には試験に合格するという水準を設けることによって、公共の福祉を実現しようとする大儀がある。故に無資格者が医師の業務をしたり、弁護士の業務をしたりすれば、憲法上の職業選択の自由は行使できず、それぞれの法律(医師法、弁護士法)で裁かれることになる。
そう考えてみると、手技は甘く見られたものだ。国家資格のシバリがかけられず自由なのだから。しかし、その判決によって、今日の手技療法界の隆盛があるのだから、このときの最高裁の判事には感謝せねばならないだろう。(指圧、按摩、マッサージ師には大変気の毒だが)

話を戻そう。押圧を主体とする技法は、遡れば人類発祥よりあった手当てが基本となる。手を当てるだけで本当の病人には効くものだ。それが、病気治しとして、圧を加えるようになったのはこれも本能のなせる業であろう。圧変化は身体に確かに影響を及ぼす。大気圧でさえ、低気圧のときはなんとなく気分がすぐれず、高気圧のときのはある種の爽快感が得られる。自然界の圧が自律神経に影響を及ぼしている好例だ。静脈循環は主に下肢の筋肉の圧変化によって生み出される。寝ているときでさえ、寝返りをうちながら、そこここに圧変化を与え、体液循環を促しているのである。このように生物には圧変化が必ずついて回るし、また必要なものなのである。(無重力状態の宇宙飛行士の顔を見てみるとよい。むくんでパンパンであろう。高血圧の人は長く無重力状態にはいられない。また気圧0の世界では人間は瞬時に破裂して即死する)
局所的な圧変化を人の手で与える。そうすると、押圧時は皮膚、筋・筋膜、血管、神経、などが圧迫される。押圧とは離圧とセットになっていて、離圧時にそれら圧迫された組織が解放され、筋・筋膜に拘束があれば解かれるし、血液の流れが悪ければ、勢いがついて流れ出す。また神経伝達も良くなるだろう。浸透圧によって営まれている代謝の部分は押圧と離圧によってより促進される。ということで、いいこと尽くめなのだが、さらにその人の特有のポイントを選ぶことができたなら、単なるリラックス効果に留まらず、自然治癒を妨げている原因(真のコリ)が解消され、改善へと進むだろう。
本能的に行ったであろうところの単純推圧は現代医学の所見にも適合し、その効果を保証してくれるわけだ。単純推圧が最も安全だし、効果を得さしめるのである。単純な推圧であるが故に簡単で、誰でもできるものである。

しかし、前回の雑感で「一日でマスターできるが10年経ってもマスターできない」旨のことを述べた。甚だしい言語矛盾と感じられるだろう。そのココロは単純であるが故に誤魔化しが効かないということ。ポイントのズレ、角度、圧力の些細な違いが、まるで別のもを受けているかのように感じられる。さらに押圧と離圧のタイミング、全体の間(マ)もかなり影響する。せっかくポイントを突いているのに圧力が足りなかったり、強すぎたりすれば、台無しになる。ポイントと刺激量の問題。ポイントは前項「問題の所在」とも通ずるものなので、それはほとんど一生かけて追求しなければならないものだ。故にここでは触れないが、それを除いた場合、重要な要素は一つ。

それはこのHPで何度か出てきている刺激量(ドーゼ)の問題(手技押圧の場合、圧力と言い換えてもいいだろう)。これは手技に関わらず、鍼灸でも重要な問題であると聞く。
受け手の感受性によってこれは変化する。同じ刺激量でも感じない者もいるし、強すぎて、我慢を強いられる者もいる。痛ければ効くというものでもないわけだから、この加減が難しい。施術家は様々な人の身体を相手にせねばならない。環境にもよるが、所謂、マッサージ慣れ、指圧慣れした人が多く集まるサロンでやっていると、どうしても刺激量が多くなってしまう。その逆のケースもあるわけで、相手の感受性を考えた施術というのはその時点で難しいものになってしまうだろう。自分にあったクライアントが自然にリピート顧客になってくれるわけだから、人によって変える必要はない、と広言する施術家もいるが、満足を提供するというだけなら、それは単に慰安である。健康度の改善、或いは促進を一義的に考えないと施術家ではなく、慰安家になってしまう。実はこの圧力の加減は難しいし、面倒なものである。圧力を調整するということ自体、施術家にとってはストレスであろう。そこでドーゼの要素を分解して考えてみたい。

まずは圧面積の要素。圧力の調整は施術家にとって基本的にストレスが溜まるわけだ。同じ圧力でも、圧面積が違うと単位面積当りの刺激量が違ってくる。物理的に当然の話だ。圧は一定であるが、圧面積を微妙に変えていけば施術ストレスは大幅に軽減される。ベテランの施術家は無意識に行っているものだろうとは思うが、今一度、意識的に行ってみるとよい。手技におけるよき押圧というのは体重が乗るということでもあり、体重移動をいかにスムーズに行うかということでもある。ここで体重を乗せるという表現を使ったが、実際、乗っかるというわけではなく、なんと言えばいいのか、言葉に詰まるが、要するに増永師のいう相手にもたれる、若しくは支えてもらう、という表現になろうか。これでもうまく表現出来ているとは思わない。ある療法家は増永批判の中で、「要するに支え圧というのはこういうことでしょ。これじゃ、全然効かないよ」と述べていたが、見ると、全然支え圧になっていなかった。形は似ているが、本質が違う。体重移動というのは自分の持っているポテンシャルの移動なのであって、単に体重を乗っけることではない。位置エネルギーがロスすることなく相手に移っていく状態のことをいうわけだ。難しい言葉でいうと「勁を発する」としかいい様がない。「自得を待つ」、と古人がいうそれである。

そのような体重移動による押圧は押していてストレスがない。むしろ自分のポテンシャルが相手に伝わっていく感覚を実感できるということは気持ちの良いものだ。さて、そのストレスのなさを加減によって台無しされてしまう。そこで、そのまま体重移動は残しておいて、圧面積で調整を行うとどうなるか。例えば、母指頭と母指腹では優に3倍くらいの面積の違いがあろう。これは人によって変えることもするが押圧部位によっても変えることができる。まずは広めの面積でストレスなく体重を乗せてみる。その身体の状態が読み取れる。圧の調整という余計な気を使わなくて済む分、施術者自ら副交感優位になって相手の副交感性の反射を感じ取れる状態になるからである。そうしておいて、コリやツボを感じ取り、やはり体重移動の圧力はそのままで刺激面積を狭くする。そうすると、同じ圧力でも鋭く入り、ツボの深い人でも届く。

手技療法家にとって、ストレスのない施術は重要である。前述のとおりである。そのストレスの軽減は「力」の加減ではなく、「圧面積」の加減によって行い得るのである。

次に圧時間の要素。同じ圧力、同じ圧面積であれば、圧している時間そのものが刺激量を決定する。これも初歩物理の道理であるから、異存はあるまい。1秒間押しているのと10秒間押しているのとを、同じ感覚で受け取る人はまずいないだろう。
単に物理的な問題ではなく、人というのは感覚が全てを決定するわけだから、そういう意味でも、圧時間は重要である。押圧された部位から身体に浸透し、充分に「効いている」という感覚を与えるには、人の身体の性質上、タイムラグを計算に入れなければならない。即ち、人は直ちに感じるのではなく、ある間(マ)をもって感じるということだ。特に身体の感覚というのは視覚や聴覚とは違って、かなり原始的な感覚である。そこにも圧時間という要素が重要である所以がある。

物理的なエネルギーのインプットという意味においても、心理的な意味においても、圧時間をいかほどにするか、というのが重要なテーマになるわけだ。結論からいうと、これもまた、“自得を待つ”という世界なのだが、少なくとも、ストレスのない状態で押していられる状態を作りだすことができれば、相手がもう充分なのか、まだ、そこを押し続けてほしいのか、何となくわかるように出来ているものだ。人は、共感作用が無意識に働くように作られているということを理解して頂きたい。

このようにしてドーゼの問題は圧面積と圧時間という二つの要素によって、感得し、かつストレスが軽減される形で解決し得る。繰り返すが押圧部位の問題はまた別の問題である。
面に対して垂直な角度を維持し、ストレスなく術者のポテンシャルが移動し、圧面積が適正で、かつ安定圧時間が的確である、というレベルは様々な感受性を持つ様々な人々を相手にするプロとしての環境で考えれば、10年かかるというのも理解して貰えるものと思う。
しかも、依然、押圧部位の問題は残されているのだから。

しかし、かくの如き要素に分解し、それを意識して行えば、その感覚を掴むのに、10年もかかることはないだろう。意識できるかどうか。心がけるかどうかである。ある者は1年でそのコツを体得するかもしれない。漫然と行っていると10年かけてもそれこそマスターできないのである。

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施術雑感(33) 脳の拍動 2007/1/20

旭川日赤病院の上山医師(脳外科)は、「脳は拍動しているので、固定したメス捌きでは脳を傷つけてしまう。その拍動に合わせて術者自らの身体をゆらし、メスもまたそのリズムに合わせて手術を行う」とNHKの番組で述べていた。。脳が拍動するというのは自然療法家の間では常識であるし、その拍動の結果、頭蓋での動きは最大で250ミクロン程になる。手技でも検出できるところだ。しかし、これは頭蓋に伝わってくる動きであって、実際の脳の拍動はどのくらいになるのか実に興味深い。私は脳外科医ではないので見たことがないが、脳外科の名医が言うのだから、拍動があること自体は間違いないと思う。また、ある脳外科出身のオステオパスも、手術のため頭蓋骨を開いたときに見える脳膜の見事で、かつリズミックな動きに魅了され、手技頭蓋療法の道へ進んだ、という話を聞いたこともある。
それにしても、プロというのは凄いものだ。脳の拍動にメスの当て方を合わせるとは・・・感動してしまった。脳自体の自律的な拍動と共に呼吸による他律的な動きにも言及されていて、その二つの動きに合わせねばならないそうな。これは手技で検出するときにも感じる。そう、頭蓋には脳自身の自律的な動きと、呼吸による他律的な動きがあるのである。このように頭蓋には混在した動きがあるので、これを感じ分けねばならないと常日頃思っていた。それが思いがけなく、脳外科の専門医の口から発せられて大いに意を強くした次第。

1930年代、頭蓋には固有の“動き”があると予見したサザーランド博士は、当時計測する装置もない時代にどうしてこのようなことを予測し得たのか。全く人間の持つ直観力には敬服せざるをえない。もともと、頭蓋乳様突起が魚のエラに似ているところから、このような発想に至ったらしいのだが、それにしても・・・と思う。先人の努力に敬意を払う所以である。
頭蓋の動き、専門的には「CRI」というのだが、そのCRIを検出するところから、頭蓋療法(クラニアル・マニピュレーション)は始る。多少の経験、訓練は必要だが、これは普通の者であれば、必ず感じることができる。それにはコツがあって、最初に計り、一連の手技の後、もう一度計るということが重要であろう。最初と術後の動き(手に感じるもの)は歴然と違うことに驚かされること度々であり、本当に頭蓋の固有運動は存在する、と確信する瞬間でもある。このようなことを何度となく行っていけば、経験値が重なり、触って程なく、頭蓋の動きがキチンとある人か、または減衰してしまっている人なのか、判断できるのである。減衰してしまっていても余程でなければ、一連の手技の後、その動きは復活してくる。復活しても極弱い動きしか感じられないか、またはほとんど変らない者も希にいる。この場合、相当に強い肉体的or精神的ショックが身体に残ってしまっていると推測できる。しかし、このような者は極端に少ない。これは統計的平均よりもかなり少ない割り合いではないかと思っている。思うに、クラニアル・マニピュレーション単独で行う施術は少なく、足の操作を充分に行ってからの施術法が影響しているのではないか。統計的データはないが、施術実感としてそう思っている。また、全息胚的な診断によれば、頭部、頸部を表わす部位(反射区、拇趾周り)に違和感を感じるクライアントは、やはりCRIの検出が困難であるという経験値がある。したがって、両極端でありながら、頭と足には大いなる関連性があるのではないかと思う次第。胚が頭になる部分と足になる部分が分化する前はまさに繋がっていたわけだから、全息胚的には「お隣さん」若しくは「一体」と言ってもいいのだろう。また、“陰極まって陽となる”陽極まって陰となる”という中国哲学を敷衍した東洋医学の真髄を垣間見る思いでもある。
このようなことからも、充分に訓練されたリフレクソロジストはクラニアル・マニピュレーションを修得すべきではないかと思っている。というよりも必須ではないのか。
血流、リンパ液だけの流れを考えても、リフレクソロジーは末梢、末端の流れを良くし、各細胞の活性化を図ることが出来る。それに対して、クラニアル・マニピュレーションは脳脊髄液の循環を良くし、中枢神経系の疲弊を取り除く。脳脊髄液といっても、もとはリンパ液であり、リンパ液といっても、もとは血液である。脳脊髄液は、絶えず脊柱管を通してこうしたリンパ液との交換が行われていて、常に新鮮で滋養分豊富なものとなっている(はずである)。つまり、末梢、中枢両面での循環が円滑に行われていて初めて、よき循環が行われていると言える。もとより治癒原理はこれだけであるとは言わないが(再三HP上で述べているが)。少なくとも、末梢循環、中枢循環をいちどきに行う施術がより大きな効果をもたらすことは間違いあるまい。

ヘッドマッサージとの違い
同じ頭部を触るという施術法だが、ヘッドマッサージとクラニアル・マニピュレーションとでは、概念がまるで違う。ヘッドマッサージは頭皮、頭部筋(特に側頭筋)へアプローチし、それらをほぐし、血行を良くする。特に頭の筋肉は肩や首ほどコリ感は感じないにも関わらず、相当にコッている場合が多い。それを放置し、ある条件が重なると私のように、非歯原性歯痛(施術百話参照)などというわけの分からない病に罹ってしまう。まあ、そこまでいかなくとも、自覚しづらいところだけに、コリほぐしの盲点ともいえるだろう。
当然、頭皮の血行が良くなるわけだから、育毛効果も期待できるわけだ。
それに対してクラニアル・マニピュレーションは、頭蓋縫合部分を通し脳膜の緊張をとり、さらに脳自体の拍動を促進させる。結果、脳脊髄液の循環が円滑になり、中枢神経系の活性が行われる。
予めお断りして置きたいのだが、どちらが優れているかという問題ではなく、目的が違うということを理解して頂きたいと思う。

さて、面白いことに、頭蓋、脳膜、さらに脳自体へ影響を与えるクラニアル・マニピュレーションの技法は、5グラムタッチという言葉に代表されるように、実にソフトなタッチで行う。圧力が5グラムであるという意味だ。実際、料理で使うような計りで5グラムを維持するような圧力を指でかけて頂ければ分かると思うが、これは非常にソフトなタッチである。実務上は圧力を維持しなければならないので、5グラムよりは大きい圧力にはなる。なるが、指圧やマッサージのような圧力でないことは間違いないのである。先人達の経験、不肖私の経験でも、このタッチ以外では脳への影響力がほとんどないと言える。つまり、脳の拍動を促進することはできないのである。
それに対して、頭皮や頭部筋群へのアプローチであるヘッドマッサージは5グラムタッチよりもはるかに強い圧力を使う。脳や脳膜よりも表面にある組織に対してのアプローチにも関わらずである。普通、深部へ到達させるにはより大きな圧力を必要とするわけだから、これとは逆にならなければならないはず。しかし、実際は述べたようになる。
生体は単なる物体ではなく、一種のエネルギー体であることから、このようなニュートン力学と相反する現象がおきてしまう。術者と被術者のエネルギーの共振点とでも言えばいいのだろうか。これはニューエイジ的過ぎる表現だろうか。であれば、観点を変えて説明してみたい。足でも身体でもそうであるが、強い力にはそれだけ、反発力が働く、つまり圧が浸透する前に身体が防御してしまうのである。だから、身体を操作する術者はその反発がなされないように工夫して施術を行う。基本中の基本であろう。そう言った意味で特別にデリケートな頭部、その中にある脳膜、脳に対しては、はじめから最小限の圧力で行うほうが、一見遠回りのようでいて、もっとも効率の良い浸透力を得られる方法なのかも知れない(やはりそればかりではないような気がするが)。なんにせよ、ヘッドマッサージよりははるかに少ない圧力で脳に到達させる技法であり、方法論なのである。
少なくとも頭蓋→脳膜→脳への働きかけは5グラムタッチが最も優れた方法である。

頭のコリをほぐし、爽快感を得、ストレス解消を目的とするならヘッドマッサージを選択してもいいだろうし、ある種の治療目的、若しくは体質改善を目的とするならクラニアル・マニピュレーション適用となろう。個人的にはより本質的な改善に惹かれるので、所望されてもヘッドマッサージを行う気にはなれないのだが。まあ、ここら辺になると個人的な考え方の問題でしょう。(だから、優劣の問題ではないのです)

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施術雑感(34) 全息胚診断 2007/2/16

漢方を処方するにあたって、出鱈目に、いい加減に薬を決めるということはない。必ず、「証」というものがあって、それに対応する漢方薬を選ぶことは今や素人でも常識の範囲に入っているだろう。その「証」を決めるに際して漢方的な診断を行うことになる。問診で、日常的な習慣等を詳しく聞いたり、脈を診たり、舌を診たり、お腹を触ったりして、その人にあった漢方薬を決めていくわけだ。望診、聞診、問診、切診が基本となるわけだが、これらすべて医者の五感を頼りにするものだ。
鍼においても、古典を標榜する鍼灸師はこれまた六部定位法といわれる脈診を行い、それによって、取穴する位置を決めていく。
つまり、東洋医学といえども、医学である以上、診断が必ずあるということだ。それが、西洋医学とはまるで概念が違っていてもである。東洋医学なりの診断、つまり「証」というものが決らない限り、治療のしようがない。この辺は、西洋医学となんら変らないのである。
さて、手技法においても、当然、診断が必要である。診断なきものは全て民間療法なのであって、医療に値しないものである。なぜなら、フィードバックがないから、進歩しようがないからである。診断というものがあれば、その診断が間違っていたのか、また、間違ってはいないのだが、最早、手に負えない病勢なのか、これらのことが蓄積されて、進化、発展していくことになる。失敗例は失敗例として、貴重な経験値になるのである。手技は長らく、この診断というものを疎かにしてきた。コッているところを聞いて、その部分を重点に行うーこれはこれで診断といえば診断なのであるが、症状のみに対応するという意味では厳密には診断ではない。だから、マッサージ等は現在の医療制度の中で、治療補助の立場しか与えられていない。その部分に不足を感じ、手技独自の経絡「証」診断というものを体系化した故増永静人師の仕事は長く顕彰されるべき偉業と言えるものなのである。
さて、熟達したリフレクソロジストの最大の利点は何か?といえば、期せずして全息胚診断(反射区診断)が行えるということに尽きるだろう。施術操作そのものは慣れというものがあって、それなりに長くやれば、上手くなるだろう。しかし、反射区診断はその気がなければいつまでたっても身につかないものである。
さらにやり方がわからない。若しくは、誤解しているという状況ではなかろうか。
ここで誤解を解くために、このリフレクソロジー的診断方法について少し言及してみたい。

1、 全息胚診断(反射区診断)は身体の大雑把な問題点を捉えるものであって、どの臓器がどのような異常を起しているのかを見つけるものではない(また見つけられるものでもない)これは東洋医学における「証」診断にも似た概念であり、いわば体質診断なのである。

2、 1を受けて、片足のみの精査では分からない。なぜなら、足には個性というものがあって、反射区異常なのか、その人の足の個性なのか、基本的には理解できないからである。故に必ず、両足を同時に診て、左右差の中で考える。

3、 (特に内臓は)自覚症状がないのに機能低下という現象があるということを頭に入れておく。その中でも、腎臓や肝臓は特に自覚症状がない。

4、 場合によっては他覚症状さえない場合がある(検査的異常がない)。故に指摘するときは慎重に。

5、 足自体の歪みも考慮にいれる。O脚、足首の硬さ、傾き、足の長さ。これらは当然ながら身体自体の歪みの結果であるが、イコール反射区異常とも捉えられる。(だからこそ、両足で見なければならない)また、足を合わせるとき、内踝の突端で合わせる。内踝の突端以外で合わせても、反射区異常は検出できない。

6、 角質などは反射区異常の結果として起こっているものもあるが、合わない靴などで起こりえる。しかし、後者であっても逆反射を起し、やがて対応する器官に異常を起す場合もある。そのプロセスの途中かもしれないということを理解する。

7、 反射区ばかりではなく、古来よりの言い伝えも重要視する。例えば、内反小趾が甚だしい場合、子宮の位置異常があるとか・・・踵、踵周りがカサカサし、角質がついている場合、脾の異常があるとか・・・etc.

8、 有痛箇所も重要な手ががりになるが、生理的に痛がる者、尿酸値が高いなどの理由があって、痛みを訴える場合があるので、有痛のみで判断しない。(また施術者の力加減に左右される要素が大きいため、客観性が保てない)

細かく言えばもっともっとあるが、大きな注意点とすれば以上のような事柄になるだろう。特に2は盲点であるから、このヒントだけでもピンとくるリフレクソロジストが多くいるのではないだろうか。
現状、大手サロンに勤めているリフレクソロジスト達は、すべて時間管理された中で働かねばならない状況であろう。したがって、時間をかけて、全息胚診断を行うゆとりはないかもしれない。そこはなんとか工夫して、若しくはプライベートの時間の中で訓練されたら良いのではないかと思う。いずれにしても折角、リフレクソロジーという診断即治療を行い得る手技にめぐり合ったわけだから、単なる作業者に終わってしまうのはあまりにも勿体無いことである。次から次へリフレという作業を行っているうち、そのうち仕事自体が嫌になってしまうのではないか・・・と老婆心ながら心配してしまう。

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施術雑感(35) 癒しの本当の意味 2007/8/9

かつて伝手研レターという手紙に遠藤周作氏のエッセーを引用したことがある。
大変長くなるので、ここではその要旨のみを記したい。

遠藤氏はかつて検査入院したとき、獣の吼えるような声が聞こえてきて、一睡も出来なかったという。病院で実験動物でも飼っているのか、という疑念があったらしく、翌日、看護師に問うたそうである。
すると、あれは動物じゃなく、末期がんの患者さんであまりの苦痛に叫んでいるのだと答えた。
モルヒネも効かないくらいの末期で、しかもその患者自体が医師なので、絶望的な状態だと本人はよく知っているのだとも言ったそうである。
そこで、遠藤氏は、モルヒネも効かないくらいの苦痛を持つ患者に対して、一体どうしてあげられるのだ?と再び問うた。
看護師は言う。そういう場合は患者のそばにいてやり、手を握ってあげるのだと。すると、患者は苦痛が軽減されるらしく、段々おとなしくなって眠ってしまうと答えた。
それを聞いた遠藤周作氏は「そんなバカなことがあるものか、モルヒネも効かないほどの苦痛を持つ患者に手を握るくらいで軽減されるわけがない」と正直思ったそうである。
そのときはそれくらいの疑問で済んだのであるが、こんどは遠藤氏自身が大病することになり、手術を受けるハメになった。痛みに弱い体質であるのか、彼は大騒ぎしたそうである。もっと、痛み止めを打て!モルヒネも使え!と駄々をこねたらしい。しかし、麻薬系の痛み止めは使うのに限度があると諭された。しかし、痛いものは痛いのでまんじりともできなかったという。
そこで看護師がそばに寄ってきて、遠藤氏の手を握って、落ち着かせようとしたとのこと。
すると不思議なことに本当に苦痛が半減したので驚いたという話である。(あのときの話は本当であったという意味もあって)

遠藤氏は作家らしい目でこの現象を以下のように説明している。
病人というのはその苦痛を抱えているとき、世界でたった一人苦しんでいるという絶対的孤独感に苛まれる。つまり、苦痛の半分は孤独感から来ているのではないか、と。そこで、他者が手を握るなりすると、その孤独が癒され、本来手当てというものはそういうものなのではないか。自分は一人ではない!と本能的に悟るとき、病人は癒され、肉体的な苦痛さえも半減するものなのだ。

以上、拙い要約で申し訳ないが、私はこの一文を読んだとき、非常に感銘を受けた。
そして、増永静人師の論文の一節を思い出したものである。
「自他を分ける境界となる皮膚は自他を融合させる界面へと変化する」(要旨)
つまり、押圧原理の極意を言っているのである。
押圧とは単なる刺激ではない。手当ての延長線上にある本能的行為である、と増永師は繰り返し述べている。
まさに遠藤周作氏が体験した手当ての威力をその豊かな経験から喝破されたものと言えよう。
さて、私はそれら先人達の経験から癒しを次のように定義しているのである。

本来、生きとし生けるものは全て一つであって、自他との区別がない。つまり究極的には命は一つであった。故に本来孤独というものはなく、一体である。これらは幾多の宗教家が述べていることであるが、実際、そうだろうと思うのである。
故に殺人という行為は道徳的な問題でも、法律的な問題でもなく、自分の中にある一部を殺す行為であって次元を違えて見れば一種の自殺である。環境破壊も同様ではないか、と。
私は宗教家でも哲学者でもなく、単なる一施術者であるが、施術における究極的な癒しとはそれを思い出させる行為ではないだろうか、と不遜にも思ってしまうのである。

故に私にとって押圧とはツボ刺激でもなければ反射刺激でもあり得ないのである。
押圧を通してクライアントとの一体感を感じようとする行為そのものが施術であると思っている。この一点において、長く長く苦労してきた歴史があるのである。
勿論、クライアントがそれを直ちに意識上で感じるということはない。しかし、本能的、無意識的に感じるものと信じている。その一体感を得るのにどうすれば良いのか、そのことだけを考えて一押しに魂を込めてきたつもりである。勿論、悟りを得た聖者でもない私がそのような大それたことをいつも出来るわけがないが、意識としてはそのつもりで行ってきた。
それが本当の癒しだと信じているからである。

ある位置で、ある圧度で押圧するとき、施術者とクライアントは一体になれると今も思っている。これはほとんど揺るがない信念でもある。
一体となったときクライアントは、自分は一人ではない、多くの人々と一体なのだ、と無意識に感じ、そこから本当の意味での癒しが始まるのではないだろうか。
施術者はそれを思い出せる触媒の働きをする役目を負っているのではないだろうかと。
勿論、技術を軽視するつもりも技法を尊重しない、なんてことはない。しかし、技術も技法もその目的において、一体感を演出する手段であると思うのである。

ある人が施術後、こう言った。
「私の病気は治るかもしれない、何故かは分からないが、そんな気がする」
そのときの施術はいつもにまして、圧度的に一体感を感じる心地良い適圧であったことを覚えている。自分を見失うとき、この感覚は得られないのである。治そうと企てても、得られない。ほとんど無心に近い状況の中で、施術自体が自分にとっても心地良いもので、何故かその圧が丁度良いと感じるとき、相手の潜在意識がそれを感じてくれて、癒しが始まるのだということを教えてくれた事例ではあった。そのとき、クライアントと一体となっていたのであろう。そのクライアントの心地良さが私にも伝わってきて、両者とも心地良さに包まれていたというわけだ。
その方は難病系であったが、それ以来、検査では常に陰性を示している。

施術は肉体的に疲れる。慣れないと余計に疲れる。しかし、疲れるというのはどんな仕事でも同じである。サラリーマンでもOLでも、自営業でも仕事をする以上は疲れる。
我々の仕事の特徴は、その肉体的な疲れだけではなく、邪気を受ける、気を取られるという言葉に代表されるが如く、生命エネルギーの消耗、または汚染みたいな疲れが重なる。
実は私も疲れる施術がある。しかしこれは未熟なせいである。
本来、病人は肉体的、精神的に病んでいるのであって、魂まで病んでいるということはない。
故に邪気を受けるレベル、気を取られるレベルの施術は施術のレベルが低いからに他ならない。
もう一つ上のレベル、つまり、相手の魂と一体化するレベルでの施術は施術家にとっても癒される施術であって、疲れるということはないのである。
(肉体的な疲れは技術的なものであって、訓練していくより他ないのであるが)
これは経験が教えてくれている。いつもそういう施術が出来るわけではないが、真の意味での癒しの施術を行い得るとき、生命エネルギーの消耗や汚染など無縁の世界である。

ともあれ、「皮膚が境界ではなく、界面となる」施術を目指してやってきた。
しかし、私は理想家であっても夢想家ではない。
現実問題として、肉体レベルでしか感じようとしないクライアントもいる。
サウナ系マッサージハウスでヤクザ風の男が施術者を怒鳴り散らしていた場面も目撃している。
「もっと真面目にやれ!力入れてんのか!もっと強くだ!バカたれが!」
こういう現実の中で相手と一体となる施術が理想だ、なんて言われても、現実を知らない奴だと一笑に付すに違いないだろう。
さらに相手が寝入ったことをいいことに手抜きする施術者もいる。狐と狸のバカしあいみたいな環境で向上心も持たずにやり続けると施術者というよりも人間としてダメになる。
しかし、向上心を持ち、真の施術の意味を問い続ければ、必ず環境が変わる。そういうチャンスが必ず巡ってくるのである。そのとき、施術を刺激としか考えられないのであれば、チャンスを生かすことは出来ないだろう。

ツボ刺激も反射区刺激もそれを物理的刺激でのみ行うと、ロングスパンでは害になる。そこに施術者の企てない意図(インテンション)が介入してこないと、肉体を傷つけるのである。
押圧が難しい所以である。

逆に正しいインテンションが介入するとき、フルフォードが使うパーカッションハンマーのような機械を使っても傷つけることなく機能すると思う。また、施術者の手だけではなく他の部位を使っても同じだろうと思う。(手が一番感じやすいので同化でき得る利点はあるが)

ある種の整体院やマッサージハウスで勤めている方は、コリが芯まで入って、強い刺激でなければ満足しないクライアントばかりが来るので整体とはそういうものだと誤解している人もいるかと思う。
しかし、このような方達の絶対数は少なく、意外に肉体レベルではなく、エネルギーフィールドで感じ取る人も多いのである。このような人たちは通常の強い刺激の整体院を本能的に避け、自分にあった施術院を探しているものだ。この現実を知るべきであろう。

個人的には肉体レベルでしか感じ取れない、つまり、強い刺激しか価値を認めないクライアントはやらない。やらないといっても最初は分からないだろうから一度はやる。その結果、もっと強い圧度を要求された場合は断る。限度というものを知っているからである。
それが自分の技量不足なのか、確かにこの圧で間違いない、と思えるのかはある程度の経験が必要であろう。

相手のエネルギーフィールドに働きかけ、それが心地良いと思う感受性を持っているクライアントを施術するくらい楽しいものはない。何故なら、自分も心地良いからだ。
施術は自分が心地よくならなければ始まらないのである。

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施術雑感(36) クライアントが寝入るということ 2007/8/27

ある流派はクライアントが寝入るのを嫌い、施術の間中、問い続ける。
また、別の一派はクライアントが寝入るのを良しとし、それを自派の特徴と位置づけている。
前者の考え方は意識が遮断されると、施術の効果が減衰してしまうという考えに基づいている。
後者はリラックスの極限において寝てしまうのであって、それが休息の極致であるとの考えに基づいている。
どちらも正解だと思う。意識がしっかりあって「確かに癒されている」または「響いて気持ちが良い」と感じるのはそれ自体が身体に良い影響を与える。また、休息の極致として睡眠があり、人はそれによって疲れを癒し、覚醒後の活力を得ているわけだ。

しかし、いずれも表面的な現象に目を奪われているような気がする。
寝せれば良い、というものでもなく、起きていれば良いというものでもない。
なぜなら、人には第三の意識というものがあって、普通、潜在意識と一括して呼ぶものであるが、この意識の領域は何層にも渡って連なっているものだからである。
ユングが言う深層意識、さらに個を超え、集団的無意識という領域まであると思っている。

数限りなく症例が報告されているが、例えば、手術の際、全身麻酔で意識がなくなる。
だからこそ、苦痛なく身体を切り刻むことができるのであるが、これをヒプノなどの療法で潜在意識に問いかけると、意識がない状況にも関わらず、つまり覚えているはずもない状況を見事に思い出すのである。或いは意識不明の重篤な状態に陥り、後、回復して元気になった例でも、当然、意識不明のときのことは通常では思い出せない。ところが潜在意識に問いかけると、これもまたそのときの状況、周りの様子を思い出す。
つまり、普通、我々が意識と呼んでいる領域は意識全体の中ではごく狭い範囲でしかないということである。寝入っていようがいまいが第三の意識は常に覚醒していてそれを克明に覚えているものだと認識せねばならない。時には他者の心の動きさえ分かるほどの賢い意識が誰にでも備わっているということである。

本質的治癒というのは潜在意識の変化を伴うことによって起きる。それは意識上から降りて変化する場合もあろうし、潜在意識そのものにダイレクトに働きかけ変化する場合もあろう。前者は心理カウンセリング、後者はヒプノセラピーの最たる方法論ではある。

故に施術上はどちらの場合も対応し得るものであって、どちらの方がいいとは言えないのである。
要は、どちらの場合も潜在的な意識に働きかけるような施術者の態度が必要であるということだ。
寝入ったからといって安心することも馬鹿げているし、逆に慌てる必要もない。
変わらぬ誠実な態度が必要なのである。
施術者は常にどういう場合も施術者の意図を読み取る受療者の賢い潜在意識を相手にしているということを忘れてはならない。全て意図を察しているのである。
考えてみれば怖い話であって、施術者は相手の前では丸裸にされている状態でもある。
こちらが心の中で思っている意図さえ読まれているのである。
大昔、医者たるもの精神修養が大事とばかりにその修行に打ち込ませたと聞く。これは実に意味のあることであって、医者の焦り、功名心、淫らな考え、これらは全て患者の自発的治癒の邪魔になるものだ。それらを封じ込める修行が名医になるための第一歩としたのは古人の直感的理解によるものだろう。

タイ古式マッサージが、本来僧侶が行うものであることにはリッパな意味がある。一つは衆生救済の一環としてであるが、もっと重要な意味は自身の修行の為である。あらゆる煩悩を絶ち、純粋なインテンションのみを発動させることによって相手の潜在意識に働きかけ、治癒を促す。これが本当の意味で出来たとき、悟りに近いものが得られるのだろう。(タイ仏教が小乗教であるとこを考えると尚更である)

故にイエスが最高のヒーラーであると当時称され、仏が医王と別称された経典もあるのだと思う。

日本においても、手技法は二つの流れがあって、一つは武道系、一つは寺院系である。現在もこの流れは混交されているとはいえ、続いている。
いずれも、最終的には術者の精神性が重要視される。(場合によっては霊性でさえある)
どちらかというと武道系は凛とした清冽な心持が要求され、寺院系は慈悲の心を要求される。
これらを抜きにして語るならば形骸化した残骸を見ているに過ぎなく、こちらの方が優れているとか、このやり方が疲れなくて良いとか、枝葉末節の論に陥ってしまう。

技法は施術者の精神性の具現化なのである。その精神性を受療者が感じ取るときに癒しが始まるのであって、技法の優劣の問題ではない。
とは言うものの、「型から入り、本質に迫る」という言がある如く、精神性のみで癒せるのは、聖人しかいまい。我々凡人は技法という型を徹底的に磨き、精神性を高める他ないのも現実ではある。
しかし、忘れてならないのは施術者自身の全てがさらけ出されるのが施術というものであって、生半可な心持で行うものではないということである。そして、それは相手が寝てようがいまいがお構いなく察せられるということだ。

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